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ただの日常

「……ごめんよ」 小柄な女は、ただ死にゆくだけの家畜の顔面を火のついたガスコンロに叩きつけながら、絞り出すように言った。 自動消火機能もない、最低限人が命を繋ぐための食事を温める機能しかないガスコンロ。徹底的なコスト削減を図った貧困層向け団地のキッチンは、あくまで危険でいっぱいであった。吹き出るガスを炎に変えるだけの設備は、人間の第一印象を決定する顔面を振り回されただけでは消えもしない。 少なくとも、まだ年端のいかない子供や、そこから成長できなかった人々には。そういう可能性も多く残されていた。 身長に比例して小さな手で成人男性の頭を掴んでいられるのは、彼女が生き残るためにありとあらゆる手段を尽くして体を鍛え続けたからだった。彼女は人に何を言われようが気にはならない。だから、本当に生半可な手段ではこの悪魔を振り払えない。 悪魔の格好もみすぼらしいものであった。時代遅れのアディダス製トラックパンツに、着古したMA-1ジャケット、朽ちかけたTシャツにぼろぼろのスポーツシューズ。まるで、競技引退後に食べてゆく手段がなく裏社会に転じたスポーツ選手のような見た目でもあった。短い黒髪はまるで汚れもののスカーフのようにも見えるし両手甲の太陽と月の刺青以外はそう覚えやすい特徴もない。 「あんたが苦しむさまを見て、あたしに金を払う人がいるんだ……でも、悪いとは思ってるよ。それでも、お腹が空いたまま死にたくないんだ」 被害者は何十回目かわからない金属と炎の打撃を受けて、ついに絶命した。女は医学知識も何もないが、長年の経験でその男の鼓動が止まり、そして再び繰り返されることはないことも知っていた。無表情で亡骸を放り投げると、画面越しに拷問の様を見せつけていたタブレット端末にまるで唾でも吐くかのように顔を近づけて、事の顛末を説明し始める。 「あんたに言われた通り、なるべく苦しめたつもりだけど、こいつは白だと思うよ。少なくともあんたが望む答えを出さない程度にね」 「いや、それでいい」 画面越しの男は、膝で抱えていた猫を退屈しのぎのように首をねじ切って崩壊した笑いを浮かべながら続けた。 「お前はうちの組の意向にぴったりなんだ。少しでも反組織の疑いを見せたら死神がやってくる、重要なことだぞ?リル・デビルとは名ばかりで、その本性は大悪魔を凌駕する……」 「知れたこと」 リル・デビルと呼ばれた女は不服そうに画面越しの相手をにらみながら言葉をつづけた。 「あたしはあんたがこの世界で生きていくのに必要なものを働きの代償によこすだけの、ロボットみたいなもんとしか思っていない。あんたがその重いお尻を動かして自分の手で何かを思い通りにするつもりがないなら、払うものを払いな」 リル・デビルはあくまで淡々と続けた。 「あたしはやくざじゃないし、殺し屋でもない。それ相応のお金でやってほしいことをこなすだけだよ。この時代なら貴重じゃない?」 これが四日前のこと。 そしてまたリル・デビルは別の場所で、別のやり方でこの生き地獄を駆け回る。 哀れな走りトカゲはいたるところに廃車が転がされているスラム街を本気で逃げていて、リル・デビルはそれを金属バット片手に追いかけている。トカゲは陸上選手張りの逃走を見せつけ、飽くなき生の探求に勤しむが残念ながら悪魔を出し抜けるほどのそれではなかった。もう30分近く走り続けているが、追手のチビ女が息を切らす様子は全く見えない。追手を撒くことができないというプレッシャーがトカゲを悪い方に追い詰めてゆき、そしてついに袋小路で詰め寄られてしまった。 なんとか、フェンスをよじ登って乗り越えようとするが、背中をむんずと掴まれ引きずり降ろされる。恐怖で歪む顔を見て、リルのしかめ面はより深いものとなった。 「待ってくれ!おれは無実だ!アリバイもある!なんでお前を仕向けられなきゃいけないんだ!?」 「少しは済まないと思ってるよ、こんな結果にしかならなくて」 トカゲは哀れっぽく鳴き声をあげたがリルは一つ大きな呼吸しただけで、肺一杯に粉塵だらけの空気を取り込んで回復した顔を見せつけ、そして機械的に言った。 「あたしに前後は関係ない。人を殺してもいいや、ってぐらいのお金もらったから。頼まれたことをやるだけだよ……ドアの開け閉めと同じだね」 リルが手に持つ金属バットが、トカゲの脳天に絶命の一撃を与えた。 あとは、高ぶりも落ち込みもせず、動かなくなるまで頭を殴り続けるだけだった。数時間後には、このトカゲの肉片は野良犬に食い荒らされている。 これが三日前のこと。 東京都北千住の、とある地下バーで契約殺人のドラフト会議が行われていた。各々得物を携える裏社会の住民たちが、依頼主の提示する金額に対し少しでも上前をはねようと躍起になっていたが、右手に太陽、左手に月を刺青した手がバーのドアを開けるのを見た瞬間、裏社会の住民たちはおとなしくなって酒を飲むふりでもしながら、その相手を避けた。 金を払う側からすれば、人生と引き換えるには安すぎる金銭で大概のことはしてくれるリル・デビルはありがたい存在だろう。依頼主から金を奪いように受け取ると、リルはさっさとつまらないルーチンワークに出かけて行った。 その翌日、足立区のゴミ箱から、バラバラになった死体が発見された。勘のいい関係者ならすぐに何がどうなったか、わかる。あの女は本当にドライだ。少額の金でなんでもやる。仕事は全く選ばず、そして手段も選ばない。まるで、自分が生存していることの正当化をあきらめたように。彼女の頭には金銭のことしかない、と裏社会でささやかれていた。刈り取るように、仕事を安い金でさらってゆくので東京中の、いや、日本中の殺し屋や喧嘩屋、賞金稼ぎからの評価はすこぶる悪い。 これが一昨日のこと。 これはつまらない仕事だからすぐに終わらせてきた。朝の通勤ラッシュの時間帯、ターゲットはプラットホームの一番前に行儀よく立っていた。きちんと白線の内側にいた。そしてリル・デビルはそれを見逃したりはしない。 電車が入ってくる。ターゲットはカバンを持ち上げようとした。周りの客は皆死体のような表情でぼぉっと端末を見ていて周囲のことなど気にしていない。楽な仕事だ、自分のこと以外を気にしない人間が増えるほどリルは楽に小銭を稼げる。人生の記号化、存在価値の数値化がすすむほど、あまりにもあっけなく物事は進む。だから、ほんの少しリルが力を込めてターゲットを後ろから押したことにも誰も気づかないし、人一人が死んだことも電車遅延の厄介な理由としか捉えない人が大半であった。 楽な商売だ、とリルは思った。 これが昨日のことである。 リルからすれば、別にどうということもなかった。この女はそういう生き方をしてきた。今までも。そしてこれからも。
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