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第1話

 彼はどこが変わっていたというわけではないけれど、空気がどこか、私のよく知るものとは少し違っていた。  神社巡りや写真撮影が好きな私はあの田舎を訪れた。肥やしの匂いがして、どこもかしこも土の色がしていた、とにかく視界の開けた場所。遠い先には大通りが見えた。生活の中心は車で電車もバスもほとんど通っていない。タクシーでさえ本当に駅前という区間でしか見つけられないほどだった。わたしが目当てにしていた神社は幾重にも連なっている鳥居が魅力的な場所で、交通に不便で大通りからも市街地からも離れているというのに観光地のようになっていた。その日は平日で催事もなかったために境内の割りには大きな駐車場にも私のほかに2台ほどしか置いていなかったし、私が車から降りた頃にはそのうちの1台はすでに駐車場を出ていた。もう1台の車は運転席でサラリーマン風の男がリクライニングして寛いでいた。私はまるで境内を貸切状態のように思い込んではしゃいだ。とはいっても大声を出したり、走り回ったというわけでもなく、あくまで気持ち、はしゃぎ気味だった。鳥居のトンネルは天気のおかげで思ったよりも明るく、赤みを帯びて鳥居と鳥居の間から入ってくる木漏れ日が優しかった。十数メートル続くそこを抜けると(やしろ)がある。私の見てきた神社としての規模は小さかったがそれでも荘厳な雰囲気に出迎えられ私は少し怖気づいた。神や仏や霊や力を信じているわけではないけれど、私の知り得ない時代を見てきた、様々な人の思いを注がれてきたという感じが酩酊感にも似た特殊な気分にさせて、それがたまらなく好きだった。写真を撮りに来たつもりで、時折カメラを構えることを忘れてしまう。お供え物が風変りなものだったということが印象的だった。  境内を出た時に、幾重にも並ぶ鳥居の脇にある簡素な喫煙所に男性が立っていた。歳の頃は私と同じくらいだった。少し機嫌のよかった私は何となく話を聞いてみる気になった。穏和な雰囲気のよくいる若者といった風貌で、地味ともいえれば純朴ともいえる透き通った感じがあった。中肉中背のなかなかの美男子だった。彼はタバコを片手に会釈した。私もそれに応えた。私が近付くと彼は塗装の剥げた赤い缶にまだ大して短くもないタバコを捨てた。濁った水がわずかに揺れた。悪いことをしてしまった気がした。確かに私は喫煙者ではないが、ここは喫煙所なのだから気を遣われる必要はなかった。 「ごめんなさい、一服中に」 「いいえ。貴方はタバコ、吸いませんね?」  彼は愛想笑いを浮かべた。ちらりと見えた歯並びの悪さだけが端整な顔立ちに似合わなかった。 「はい。喫煙所なのに、すみません」 「いいえ。たまにいらっしゃるんで。壁もないところで吸うなっていう方」  彼は口にはしなかったが、貴方もですか、とばかりに片眉を上げて挑発的な視線をくれた。 「こちらが地元なんですか」 「ええ、生粋(きっすい)の。貴方は地元の方ではありませんね」  見透かすように彼は言った。口さえ開かなければなかなかのいい男であるためか、不思議とその態度に苛立つことはなかった。 「そうです。ところで…散歩の途中ですか」 「散歩というか、日課ですね。もしかしてボク、ナンパされているんですかね」  彼は困惑気味に笑いながら、おそらく無意識に新しいタバコを指で(もてあそ)んでいた。普段は「ボク」などという(へりくだ)った一人称は使っていないのだろうな、という不慣れさが十分に伝わり、彼を背伸びした子供にみせておかしかった。 「いいえ、そういうつもりじゃ…」  なかったんです、と言い終わる前に彼は特に何というものもない開けた風景へ顔を逸らした。 「あれ、見えますか。あの工事してる家」  彼は突然話を変え、火の点いていないタバコの先で南東にあるブルーのカバーに覆われた家を指した。そして慌ててタバコをしまう。 「はい」 「昔あそこで心中事件がありましてね。ああ、ボクが話せる面白い話ってこれくらいしかないので。すみませんね」  私は首を振った。彼なりに他所(よそ)から来た私をもてなそうとしてくれているらしかった。 「心中事件ですか」 「よくある話ですよ」  びっくりする私を見もせずに青年はぴしゃりと言った。 「よくある話ですか?」 「この前もあっちのほうなんですが、借金苦で一家心中なんてことがありましたし、隣の市でもありましたよ。母親が娘と死んで、母親だけ生き残ったやつ」  青年は、今度はきちんと指で南西の方角を示した。時期はまったく違うのだろう。だが私の経験からすれば、聞かされた件数は確か多い。田舎にありがちな、社会的な繋がりが濃いゆえに情報の伝達が早いのかもしれない。私の身の周りもニュースで大きく取り上げられないだけで新聞でよく見れば案外そういった事件は多いのだろう。 「でもよかったなぁ。買い手が見つかって。もう黒焦げでしてね。あのままずっと更地になるんだろうなって思ってたんですよ。実際そういう事件があった家が更地になって雑草が生い茂ってるところがありましてね。大きな国道が通っちゃったせいで、もう寂れた道なんですけど」  青年は(しき)りにタバコをしまったポケットへ手をやった。そのうち行き場をなくした手が忙しなく揺れ動いた。 「タバコ、吸ってください。ここに来たのは私ですし、気にしませんから」 「そうもいきませんよ。ボクが気にするんです」  並びの悪い前歯を見せて彼は苦笑した。 「あそこにね、昔、祖父と両親と男の子の4人家族が住んでいたんですよ。犬もいたな。老犬でして。白くて黄ばんでる感じの。雑種なんですけど」  彼の目はじっとブルーシートに覆われた家を見ていた。彼の手は吸うつもりはないらしいがタバコのパッケージに触れていた。 「男の子が小学校高学年に上がる頃かな。母親が…帰ってこなくなったと聞いています。よくある話ですね、これも」 「よくある話ですかね」 「行方不明ならとにかく、母親が家に帰ってこないくらいではニュースになりませんからね」  彼がいう「よくある話」を私はなかなか共感できずにいたがそれが彼の口癖のようなもので私への歩み寄りのようなものに感じられた。 「男の子はよく散歩してたな、犬連れて。おじいちゃんも歳の割りには元気そうでした。懐かしいな」  青年はすでにタバコを取り出し、そして慌てて箱へ入れていた。喫煙者の気持ちは分からないが私の父もよくタバコを吸っていた。実家を離れてからは街の中でタバコの匂いにホームシックになるくらいだった。母はいい顔をしなかったけれど。 「でもまぁ、おじいちゃんは亡くなりましてね。犬も間もなくって感じでした。姿見なくなったのも大体その頃だったので。飼い主の後を追うってやつですか。それからだと思いますよ、まだ自分の生き方も選べないくらいの男の子の生活が変わったのは。でも家族を持つ者は必ず一回は経験しなくちゃいけないことですから」  その言い方は少し冷淡な印象があった。だが彼は、そうでしょう?と問いたげに視線をくれた。青年の純朴な姿に似合わず、わずかな意地の悪さを感じる。タバコを吸えない八つ当たりにさえ感じられた。 「とはいえ父親との2人暮らしですから、あの子供が怯えることなんてないはずなんですよ。本当ならね。何せ実の父親ですし」  この話の末路が心中事件に結びつくことは分かっていた。しかし忘れていた。思わせぶりな口調とは裏腹に、青年は私の前でタバコを吸うことに決めたらしかった。パッケージの端を軽く叩いてタバコが浮くように出てくる。口元へ運ばれていった乾いた目を追っていた。深爪とささくれが目に入った。 「失礼しますね」 「いいえ。お邪魔しているのは私のほうですし」 「身体に悪いのは分かっているんですけどね。やめようと思ってなかなかやめられるものじゃなくて。親父の姿ってやつですかね。かっこいいじゃないですか、なんとなく」  タバコに火が点く様までを私はしっかりと見ていた。まるで目を奪われているような感じがあった。 「私の父もよく吸っていました。私の前では吸いませんでしたけど、お父さん子だったし。我慢してたんだろうな」  彼は煙を吐き出した。揺らめいて空へ消えていく。横顔はそれを眺めていたようにも思えた。だがぼんやりと見ているだけのようにも思えた。ひとりの世界に入ってしまったという具合のものだった。 「ああ、すみません。話の腰を折ってしまって」 「いいえ…ちょっと考え事です」  今までとは少し違う苦笑いだった。どこか感情のあるもので、ヤニを吸った余裕からだと思われた。 「どこまで話しましたっけね」 「おじいさんと愛犬が亡くなったところです」 「そうでした。男の子は父親と2人暮らしになったんでしたね。大変だったな。父親が豹変しましてね。外面はいい人だったんですけど。祖父が亡くなったからかな…男の子も犬がいないものだから外に出る理由もなくなりましたし。活発な子ではあったんですよ、近所の子たちと遊ぶ姿も見たことありましたからね。ただやっぱり(ふさ)ぎ込んでいました。学校には毎日通ってたと思うんですけど。生活は何も変わっていないように思えましたね。明るい子でしたから、心配かけないように必死だったんだと思いますよ」  彼はタバコの煙で輪っかを作った。見てみろとばかりにタバコを摘まんだ指が私の意識を誘導する。しかしわたしが見た頃には大きく歪み、消えかけていた。それでもそれが輪っかだと分かったのは本当に小さい頃、一度だけ父に見せられたことがあるからだった。その煙にどのような害があるかを知りもせず、イルカみたいだとはしゃいだ覚えがある。 「これもよくある話ですね。日常に戻ろうとするんですよ。そうでないとやっていられません。周りの同情の目がそうさせることもあるだろうし、何より、実感がないものですよ。理解が追い付かないんです、現実に」  赤い塗装の剥げた缶の水に短くなった吸い殻が浮かぶ。渋く苦い匂いが私の鼻に届いた。 「ある日あの家が…あの家ではありませんね、あの家の前の家です。燃えたんです。驚きましたね。最近の家ってあまり燃えないでしょう。吹き飛んだ窓の奥が真っ赤でね。ライターの火よりずっと生々しかったな」  続けざまに吸おうとしていた彼は私を一瞥した。どうぞとばかりに手で喫煙を促したが、何度となく見せられた苦笑を浮かべるだけだった。 「火事ですね。よくある話です。この前もここの裏の団地が燃えましたし、なんならあそこにある公民館だって半分燃えたんですからね、確か一昨年でしたか」  青年は少し離れたブロック塀の辺りを指したが生い茂る木々でその奥はよく見えなかった。 「火は人類が手に入れた知恵…なんていいますけど。そうかも知れませんね。ヒトの目は闇夜に弱いですからね。光を与えてくれるのは原始的には火ということになるんでしょう」 「私は火が怖いです。(いま)だにライターも使えません」 「何かそういう経験があるんですか」  意外そうな眼差しを喰らう。私は少しびっくりした。自分でも思いつく限りの記憶を辿る。まず最初に浮かんだのはホテルの火事の特集だった。次に浮かんだのは近所の工場の爆発事故。友人の家の火事。ガスコンロに乗った鍋に火を点けたまま外へ出た祖母を叱責する母の姿。たどたどしく伝えてみることにした。彼は上の空で相槌を打っているという感じがあった。 「…それでもあの男の子には何か特別なものだったんですよ。新しい世界を切り開いてくれるような…違うな。今の世界を終わらせてくれるような」 「どういう意味です」 「もう頼れるものがなかったということです。日々の苛立ちをぶつけてくる父親。学校ではいい顔をしなければならなかった日々。金だけ置いて出ていったきり、帰ってこない母親…以前は当たり前にあった生活がもうそこにはありませんからね。いいえ…受け入れてはいたんですよ。でも出来なかった…!」  一変した青年の様子に私はたじろいだ。彼の強い力に囚われているみたいに目が逸らせなくなった。 「…と思うんです。どう思いますか」  肩を竦めておどけられ、私は言葉に詰まった。これという感想は特に浮かばないでいた。青年の目はふざけた調子とは裏腹に何か求めている。 「あそこであったのは心中事件と聞いたのですが…ということは、つまり?」  その先は相手に任せた。彼は私の思惑通りにその先を軽々と口にした。 「男の子が無理心中によって命を落とした…そういうことになりますね。実際、父親が息子を無理心中したと報道されていましたから…まぁ、報道されていた部分では」  そこまでならば、彼がいうところの「よくある話」だった。青年はまたタバコを咥える。ライターの音が小気味よかったのを覚えている。 「好きですか、子供」  唐突に話題が切り替わり、私は何か聞き間違えたのかと思ったためタバコを美味そうに吸う彼を二度見した。首だけ曲げて青年はじっとブルーシートに覆われた家を眺めていた。 「子供ですよ。素直で純粋で、綺麗ですか。罪もない?まったく何も?」 「私の知る子供はこの前蟻の巣に水を流し込んでいましたね。興味でしょう。そのうち自分のしたことに気付きますよ」  彼の挑戦的な目付きがよく記憶に焼き付いている。 「1階なんかは窓全部カギかけてさ、ドアも締めて…」  吸い殻がまたひとつ、錆びた缶の中に浮かんだ。彼は後ろに両手を組んで私の前をうろうろしはじめる。 「父親は寝てたよ。途中で起きたみたいだけどね。男の子はバカみたいに、部屋の中でずっと殺虫剤を撒いてた。学校で危ないって習ったばっかりだったんだろうね。ガソリンでも手に入れば良かったんだろうけど。親父がいなくなればもしかしたら母さんが帰ってくるかも…なんて思ったのかもしれないし、もしくはじいちゃんが…それか、もしかしたらピースか。とにかく親父との間に入る何かが必要だったよ。でもそう上手くいくものじゃなかった。やっぱり父親は少しずつ現実を受け入れてる男の子を受け入れられなかったんだな。少しずつ少しずつ慣れて、少しずつ少しずつ日常に戻る男の子をさ。だから怒鳴り散らしたし…殴りもした。脅しもしたな。酷い日はご飯もなかったし風呂もなかった。だから男の子は追い込まれていったんだと思うよ。もう自分ごと消すしかないってね。だって自分だけ生きてたって、また悲しみはスタートからになる。母さんがそんなこと喜ぶはずないって分かっていたし…本当は帰ってこないことも分かってた。ただ思い込みたかった。期待しちゃってる部分があったんだよ。小さい頃は可愛がってもらったからさ。愛されてた思い出が突然邪魔になったんだな」  青年は私の目の前に立ち止まった。私は、前歯2本が互いの境目へ入り込もうとしている特徴的な歯並びばかりを見ていた。境内の前を通る車の音がやたらと大きく感じられた。 「よくある話だね」 「それは、どなたから聞いたお話なんです」  彼は笑った。コンプレックスになりかねない歯を惜しげもなく私に晒す。 「強いていうなら男の子からですね。あ~あ、あそこに新しく家が建ってよかったな」  本当によかったと彼はまた繰り返した。彼は私へ背を向け、また新しく建った家を見ていた。乾いた風が彼のシャツを揺らした。 「でも半分、可哀想だと思ったよ。あの父親も他人にいい顔して、必死に働いて。厳しい親に嫁さんのこと説得して、やっと得た家族だったんだから。それでも思う通りにはいかないものさ。これもよくある話だね。とはいえ子供を威圧して死に追いやっていい理由にはならない。それで結局男の子は父親を焼くことが出来なかった。代わりに自分を焼いた。でも結果的に父親も死んだ。どうしようもない話だけど、ひとつだけ救いがある。男の子は知らないんだな、親父が死んだこと」  そして彼は私を見た。 「っていう作り話で、楽しめたかな」  ある種のチャームポイントになっている前歯を見せ彼はけらけらと笑った。 「作り話?」 「そうだよ。だって知るわけないだろ。死んじゃった人たちのキモチなんてさ。それにどっちが先に死んだかなんて、今ならすぐに調べれば明らかになるでしょ、火元」  タバコの匂いが強くなる。真剣に聞き入っていた私はやっと身体から力を抜いていいと許可が下りたみたいにふらふらした。 「いい土産になった?気を悪くしないでよ。あそこに男の子が昔住んでたのは本当。あそこで心中事件があったのも本当。ちょっと脚色しただけだって。よくある話だろ?」  へらへらと笑う姿がばかばかしくなった。どう別れを切り出そうか考えあぐねているとまた彼は口を開いた。 「でもあの火事は熱かったな」  一瞬の焦げ臭さが私を包む肥やしの匂いに混じっていた。
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