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第150話

 紅は相変わらず汚れた布の上に座り、訪問者を睨むように見上げた。運んだ布団は畳まれ、隅に置かれていた。 「気が付かなくてごめんね。遠慮しちゃうよね。でも温かいんだよ」  紅の隣に腰を下ろした。壁に背を凭せ掛ける。視点が下がるとひとりで過ごすには随分と広い部屋だった。 「使えないなら備蓄倉庫の持って来たほうがいいかな」  疲れがわずかに言い様のない虚しさを忘れさせる。だが長くはなかった。肩凝りに似た憂鬱が隙を狙っている。 「紅…」  一切動くことのなかった紅が真横の女へ意識を持つ。 「四季国に帰りたいね」  最も言ってはいけないと思っていた相手へその一言を吐くのはあまりにも簡単だった。 「四季国に、帰りたいな…」  口にしなければ押し潰されそうだった。意思を御せなくなっていた。紅は小さく唸った。何度か途切れる。それを怒りだと思った。 「ごめんね、紅。わたしがぶち壊したのに。ごめんね。ごめん…」  口腔がからからに乾いていた。声が嗄れていく。 「ちゃんと、紅だけは…どうにか…」  どうなっているのかも分からない。大きく吸った息は行き場を失った。途切れていた呻り声が歌声へと変わる。四季国の童謡だった。田植えの時期によく聞いた。 「紅…?」  懐かしさに再び視界が滲んだ。だが先程とは違う心地だった。歌詞を口遊(くちずさ)む。目蓋が重くなり、歌声が止む。うとうとしている頃に開扉の音で眠気が飛んだ。遠慮のない足音が近付き、目の前に小さな背中が広がる。 「おっと」  垂れ目は少年と対峙すると大袈裟な反動を装って後退る。目元を擦って相手を確認した。 「桃花褐さん?」 「なんか素敵なお嬢ちゃんがあんさんはこっちにいるかもって」  猫みたいな子、と説明される。紫暗のことらしかった。 「弟御がいるんですかい」  紅の前に屈み、手を伸ばす。噛みつきはしないかと半ば焦った。 「待って、触らないで。ちょっと情緒不安定なの」  桃花褐は、まじかい、と言わんばかりに垂れた目を丸くする。 「紅。この人はわたしの友人。いい人だから、大丈夫だよ。ありがとう」  幼い双眸が鋭く極彩を確認し、身を引いた。少しずつ記憶が戻っているらしかった。 「ありがとう」  跳ね癖のある赤茶の髪を撫で付ける。桃花褐へ意識を直すと彼はたまげていた。 「また後で来るからね」  紅へ言って、桃花褐と共に部屋の外へ出る。扉が閉まると。隣にある体温を避けてしまう。 「…勝手に帰ったことは悪いと思ってる。ごめんなさい」  怒鳴られるのではないかと身構えた。一対一となると緊迫感に四肢がぎこちなくなった。大きな陰に顔を上げられない。 「いや…謝らないでくれや。どっちかってェと俺のほうが謝らにゃならんのでさ」 「別に桃花褐さんに謝ってもらうことなんて何もないけれど」  桃花褐は惑っていた。後頭部を掻き乱しながら視線が宙を舞う。廊下は静かだった。何か話したいということだけは伝わった。 「離れ家に案内するから、そこで」  互いに黙ったまま落ち着く場所へ辿り着く。玄関先に2つ瓶が並んでいる。 「甘蕉(ばなな)牛乳好きなんでさ。あんさんが置いて行ってくれたやつで買っちまったわ」 「探してくれていたの」 「そこ抜けてすぐにさっきのお嬢ちゃんに会ったから探したってほどではねェな」  桃花褐は外通路を指して説明した。 「上がって」 「お邪魔します、っと。嬢ちゃん、手首の調子はどうなん」 「忘れてた」  触れば痛いが大したものでもなかった。 「救急箱は」  室内に置かれた救急箱を目で指すと、分かったと呟いた。器用なことは苦手げな指が慎重に湿布を貼り、網を被せられる。体格のいい男と2人きりになると胸がざわつき、腰が引けた。飲む物は桃花褐が持参したが客人となれば茶を出さねば気が済まない、と(かこつ)ける。 「一応、お茶を持ってくるから。悪いけれど待っていて」 「気ィ遣うなって」  目が合うが反射的に逸らしてしまった。紫暗も桜もいない。(ひよこ)のようだった小影もいない。自らの足で厨房へ向かう。離れ家でひとり過ごすことはあったが、それとは心持ちまったく違う空虚感がじわりじわりと沁みていく。下回りが申し出はしたが断った。茶を淹れて離れ家へ戻ると桃花褐は腕を組み、座りながら寝ていた。目の前に茶をゆっくりと置き、単純明快さが輝くそこへ小難しさだけを浮かべた寝顔を覗き見た。起きてさえいなければ、昔遊んだ大きな犬と共にいるかのようだった。ひとりで帰ってしまったせいで、彼は余計な労力を費やしたのかと思うと起こすに起こせなくなる。大きく首が傾き、垂れ目が開いた。 「おはよう」 「…悪ィ。寝ちまったんね」  掛布を放る。桃花褐は見守るような柔らかな苦笑を浮かべた。 「ここで寝るのは流石に(まじ)ィだろ。っつーか(すみれ)(ぼっ)ちゃんは?」 「桜ね。桜は杉染台にいる。別に寝ていっても構わないよ」  極彩は習慣によって大窓を開けようとしたが少し気温が低いことを思い出し、桜の定位置に座った。大窓のある壁と、極彩の眠る畳の()を仕切る壁とで作られた狭い空間が意外にも落ち着いた。桃花褐は視界から消える。 「嬢ちゃん」 「何?」 「話してくれて、あんがとな。つらかったろ。俺も軽率だったわ」  桜の定位置から這い出て顔を出す。(しお)らしくなった豪放な男を認める。しかし彼は遠慮なく横になり、肘をついて頭を持ち上げていた。 「急に何」 「お節介な自覚はあった。趣味ってほどにな。けどよ、嬢ちゃんを余計に傷付けちまったな、って。あ、その手首のこともだけどよ、そうじゃなくてな。話せば楽になる、そう思ってた。でもそうじゃなかったんだな」  反省会へ招待されている。 「他の人のことは分からないけれど、わたしは少しだけ楽になった。叔父上と桜には話そうとして、結局話せなかったから。男の人だから、分かるはずないって思って。それに…拒絶されたら立ち直れないと思うから。でも、桃花褐さんに話せたよかった。ありがとう」  垂れ目が心配そうに極彩を窺った。その仕草が飼い主によく懐いている老犬を彷彿させた。 「俺を甘やかしなさんな。俺が甘やかしたいくらいなのにさ」 「…随分と甘えたよ、もう」 「嬢ちゃんはいい子だな。おっと、人妻を口説いてるわけじゃぁないぜ。素直にそう思った」  何か熱を呑み込んだみたいだった。顔が火照る。桃花褐から視界から外した。見守るように、諭すように、励ますように縹にも言われることだ。しかしこの男からは慣れず、黙ってしまう。 「本当だぞ」  ふざけたように笑うが彼は確かに気落ちしていた。疲れているのかもしれない。 「冗談じゃないのは分かってるから反応に困ってる」 「そりゃありがてェや」  からから笑うがやはり覇気がない。 「桃花褐さんは、平気なの。人には話したくないんでしょう」 「嬢ちゃんがあれだけ腹割って、覚悟決めて話したのに、俺が話さないのは不公平だろう。聞いてくれんのかい」 「わたしは勝手に喋っただけ。多分、求めてたんだと思う。話す相手を。でも、話したくないのなら話さないのが一番だと思うけれど。またつらいことを追ったって、深みにはまるだけじゃない?」  垂れ目が弱気に極彩を見つめた。問えば逸らされる。 「甘えちまおうかな」 「借りは返せた?」  もともと貸してねェから。桃花褐はへらへら笑った。 「あんさんと居るのが話すより、ひとりでいるより、なんか落ち着くわ…おっと、これも口説いてるわけじゃねェからな」 「はいはい」  桜の定位置へ引っ込むと、そのうち寝息が聞こえた。
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