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第142話

 縹の部屋を訪れる。躊躇はあった。これという話す内容もなかった。答え合わせをするみたいに縹の傍にいたくなった。桜が帰ってしまうこと。桃花褐と話したこと。話すことはあるがどれも違う。言葉を交わさずともよかった。扉を叩いて名乗ると、快く入室を許された。部屋の主は机に向かっていた。その上には湯呑がある。縹へ近付くと、その中身は見えた。真っ赤な液体が注がれている。ぎょっとした姪に気付いたらしく叔父は控えめに笑った。 「(すっぽん)の生き血だよ。赤茄子の絞汁だったらよかったけれど。健康のためだからね」  飲もうとしたところで極彩が訪れたらしかった。 「あ、の…」 「すぐ飲むよ。あまり美味しくないからね。粗相をしても困る。あっちを向いていてくれないかな」  縹は冗談めかして笑い、極彩は言われた通りに扉を向いた。思っていたよりも早くに事が済んだことを告げられる。空になった湯呑が机に置かれる。 「生物(なまもの)があまり好きではなくて」 「…そういうところがあるんですね」  自身について語る縹が珍しく極彩はいつの間にか呟いていた。一拍置いてから縹はいつもより大きく口元を緩ませる。照れを隠しているのがすぐに分かった。 「今更だね。前からだけれど、君はボクを買い被りすぎだよ」 「そんなことは、ないはずです」  縹は椅子から立ち上がり、極彩へ勧めた。彼は整えられた寝台へ腰を下ろす。 「特に用はないんです。ただ…何となく叔父上のもとに寄りたくなって…」  長居はしないのだと背凭れの高い椅子に座らずに言った。縹は微笑み、再び椅子を勧める。 「君が来てくれて嬉しいよ。用がなかったなら尚更。これというおもてなしも出来ないけれど、ゆっくりしていくといい」 「ありがとうございます」  優しい微笑が怖かった。ここへ来るまでは、顔さえみれば安心できると思っていた。だがここに来てしまうと不安になった。 「桜は明日、杉染台へ戻るそうです」 「…そうかい。随分長いこと居てくれたものね」  桃花褐から聞いたことを縹に話した。叔父の相槌は美しく耳に響いた。紫雷教方式の葬儀であること、分骨の話、そしてそれを断ったこと、桜には何も話していないこと。縹は頷きながら相槌をうつ。 「彼等は…最期に毒を所望した。そう聞いたのかい」  桃花褐の話だとそうだった。 「桃花褐さんからはそう聞いています」 「だとしたら、少し語弊があるな。ボクも実際目にしてはいないけれど」  縹は極彩から顔を逸らす。まだ言うか言うまいか決めかねているようだった。 「何かご存知なんですか」 「君には知る権利があると思うから。真実というのは知った人間にしか現れない。ボクも人伝だから、真実か否かは分からないけれどある極めて高い可能性として留めておいてほしい。彼等が釈放前に所望したのは一杯の水だそうだよ。けれど届けられたのは毒だった…何かその前後でやりとりはあったみたいだけれど」  静かに縹の声が消えていく。 「じゃあ…」 「自害を選んだわけではないかも知れない、ということだよ」 「それは、誰から…」  伏せられた長い睫毛が何度か上下した。君の大好きな世話係の子。小さく呟いた。 「そうでしたか」 「深く問い質したらいけないよ。名前を出さなかったのは、ボクのこだわりだけれど…」  縹はゆっくりと顔を上げた。扉が開く。香木の匂いがした。色街の路地裏の腐臭のほうがまだ(かぐわ)しいと感じられた。縹は寝台から腰を上げ、揖礼した。極彩も立ち上がることはできたが、緊縛されたように動けなかった。天藍は縹に一瞥することもなく手を掲げる。深く頭を下げ、縹は揖礼を解く。極彩は四肢が動かずただ二公子を見ていた。 「大丈夫?」  暴行した男とは思えないほど甘ったるい声で目の前に立った。声を聞くと姿勢が崩れる。弛緩した関節は動くことを許さない。縹が駆け寄ろうとして、護衛が長刀に手を掛ける。天藍は穏やかに、「いいよ」と言って護衛は手を下ろした。縹は極彩の元に膝を着く。肩を支えられた。二公子は麗らかに笑い、屈んだ。手を差し伸べられたが後退ってしまう。叔父の影が動いた。二公子の手がさらに迫る。肩に乗った薄い手を掴んだ。細い指が折れそうなほど力強く握った。 「立ち上がれるかい?」  返事も出来なかった。恥をかかせてしまう。口は開くが声が出ない。 「申し訳ございません、二公子。成婚憂鬱症でございまして。少し神経を病んでいるのです。御慈悲をいただきたく存じます」  縹は虚言を並べる。天藍の目の色が変わった。 「…何、彩ちゃん。結婚してるの」  声音と口元は朗らかだ。射殺すような眼光は極彩から側められることはない。 「おめでたいなぁ…旦那さんに御挨拶しなきゃ…?」  今にも骨を折ってしまいそうな叔父の指を何度か揉みしだく。手は震え、冷えているくせ嫌な汗をかいて乾燥した病人の指を包む。片手が極彩の背を摩る。 「おめでたいよ。本当に…放免前の罪人が自決して、それで君が結婚…記念日に制定したいくらいだ」  天藍は立ち上がり、威圧的な微笑で2人を見下ろす。 「一体君を射止めたのはどこの誰なんだろう?…会う気なんてないけどね。間違って無礼討ちなんてしちゃったら事でしょ?」  はははと高らかに笑った。 「もうすぐで群青が帰ってくるんだ。まっさか群青より先に結婚しちゃうなんてね、驚きだよ」  もう一度天藍は極彩の前に屈んだ。腹に手を当てられる。息を忘れ、叔父の手を抱き締めた。縹の影が動く。天藍を見ているに違いなかった。 「悪いことしちゃったかな…?」  腹を這う。力は籠っていないというのに圧迫されるように嘔吐感が込み上げた。肉感のない手を放してしまう。 「二公子」  縹が険を帯びた声で呼ぶ。 「叔父は寝取り、姪は寝取られ…また数奇な」  天藍の声は冷たかった。 「寝取ってなどおりません。しっかり彼女は私を拒絶し、私もそれに応じました。私のことは事実にせよ、彼女のことを悪罵(あくば)なさるのはおやめいただきたい…それに」  縹ははっきりした態度で二公子に対し、極彩の両肩に触れる。 「どういうことです。成婚間もない姪に対して虚実取り混ぜて吹聴するのはおやめください」  天藍は肩を竦める。怒りを滲ませるのも珍しかった。 「さっすが。温厚で、オレのことには肯定と同意ばかりしていればやり過ごせる縹も姪のことと…彼女のこと言われたら黙っていられないわけだ?」  彩ちゃん。二公子は愛しそうに目を眇め、女を瞳に映す。 「オレのとこにならいつでも来ていいんだから」  冷たい手が頬を撫でていく。 「縹。今回の件…君だけはオレのこと、批判なんて出来ないはずだ?」 「まったく、その通りです」  天藍は陰険に笑って部屋を出ていく。縹に支えられ、椅子に座らされる。 「本当に、成婚憂鬱症になってしまったかな。大丈夫だよ。新生活といったって、君はここに居たらいいのだからね」  病人は目の前に座り、極彩を見上げた。 「…申し訳ございません」 「気にすることはないよ。…少し、話をしようか」  縹はふらりと寝台へ戻った。極彩は眉を顰めてしまう。彼は苦笑した。 「君のことについてじゃないよ、ボクのこと」  叔父は大きく溜息を吐いて天井を仰ぐ。 「話す時期は考えていてね。話すか否かも結局決まっていなかったんだけれど、いい機会だから」  そう言って口を開く本人もまだ踏ん切りがつかないようだった。
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