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第140話

「紫暗?」  極彩もわずかに振り向いた。刀を腰に下げている若者がゆっくりと歩いてきている。藤黄が不在の今、天藍の側近ともいえた。しかし年の頃は藤黄と比べるとかなり天藍と近い。彼はただ紫暗を見下ろしていた。紫暗は気にはするが足を止めはしないため、極彩が止まった。すると一歩分引っ張られる。帯刀を許可されている世話係といよりは護衛らしき若者は、ただ一言、二公子が呼んでいる旨のみを伝えて去っていく。目元がどことなく紫暗に似ていた。 「お兄さん?」  外見から推測される年齢的に弟というのはなさそうだった。紫暗は真顔で極彩を凝視した。何か触れてはいけない話題だったらしかった。温厚な娘を怒らせてしまったかもしれない。固まってしまう。しかし、冗談だとばかりに険を帯びた表情を崩す。そう思いました?と人懐こく訊いた。 「行って、紫暗。ここまでありがとう。おかげでもう大丈夫」  紫暗は不満さをおどけてみせた。 「布団のことも自分でやれるから」 「…分かりました」  迷っていたが、紫暗はそう言った。 「また来て」 「はい」  彼女は極彩が不安定な置物だとでも思っているのか慎重に手を放す。数歩進むたびに互いに振り返ったり、手を振ったりして距離が少しずつ開いていった。離れ家に戻り、布団を漁った。桜は不安げに様子を見ていた。 「御主人、どこか行ってしまうんですか」 「いいや。布団を運ぶだけだよ」 「それなら僕がお持ちします。御主人はそちらでお休みに…?」 「いいや。わたしのは備蓄倉庫から借りてくる」  質が良く、保温も高く、肌に馴染む敷布団と毛布を抱きながら三和土(たたき)へ降りる。桜はまだ何か言いたそうで、だが何も言わずに自らも三和土へと降りた。 「僕もお供します。備蓄倉庫、怖いですし」 「怖い?」 「暗くて、埃臭くて…座敷牢みたいじゃないですか」  座敷牢みたいじゃないですか、と言われても極彩は座敷牢に入ったことがなかった。頷き、同意した振りをしながら首を横に滑らせる。備蓄倉庫は、大窓があるものの、周辺に物が置かれ、遮光している幕が開閉しづらいために薄暗くぼんやりと倉庫のものを浮き上がらせているために、不安と想像力を掻き立てるのだった。桜は本気で言っているらしく、彼の不遇な生活を滲ませる。 「今度から、寝る時は常夜灯にしよう。すまなかったな」 「え?」 「わたしはあまり気にしない。点けたままでも構わないよ」  極彩の言葉を考えながら流れる仕草で桜が引戸を開けた。礼を言って外通路へ出るがまだ桜はついてきた。 「僕がお持ちします」 「じゃあ、外通路を出たら頼むよ。すまないな」  断ろうと思ったが、周りの目がそれを許さないのだろうと考えると桜へ預けることにした。並んで歩くこともただでさえ複雑な彼の立場を危うくしそうだった。地下牢に続く廊下と知ってわずかに表情を強張らせていた。部屋に到着すると布団を預かり、待つよう言った。紅はまた壁に背を預けて項垂れていた。扉の音に顔を上げる。落ち着いた仕草はまだ離別を選ぶ前を思わせた。 「敷いておくからね。ちゃんと、寝るんだよ」  廃品にしてしまっても気にも留まらないほどの布を持っていこうとしたが、座したまま紅の腕は与えられた布団を掴んだ。 「慣れたものがいい?寒くなるんだって。温かくするんだよ」  薄布を放す。あまり明るくはない部屋だったが埃が煌めいて舞った。一度は極彩へ顔を上げたがそれだけでずっと俯いている紅の前に屈み、金魚から着想を得た毛糸の肩掛を直す。胼胝だらけの硬い手が極彩の手を柔らかく取った。嫌がる素振りはなかったが、ゆっくりと下ろさせた。 「ごめんね」  無意識に再び触れようとしてしまい、接する前に下ろした。 「それじゃあもう行くから」  下ばかりみている顔を覗き込む。しかし表情を見せてはくれなかった。極彩は桜の待つ廊下へと出る。彼は不思議そうに主人へ視線を送っては、戸惑いがちに逸らした。 「待たせて悪かったな。備蓄倉庫に行こう」 「いいえ、全然待ってなどいません」  桜は挙動不審な目を鎮まらせ、情けない笑みを浮かべた。紅を紹介しようとも思ってはいたが、以前傷痕の話で彼等を不義の者と批難していただけに及び腰になった。備蓄倉庫まで使用人は主人の重い足取りに合せるのに手一杯なようで時折足を出す律動を狂わせていた。距離が縮まり、ぶつかる。 「あっ!御主人」 「すまない、桜」  振り返った瞬間に影が迫った。真新しく陰々滅々(いんいんめつめつ)とした幻影に囚われる。背に回った腕と大きく転がる視界。ごつんと鈍い音がしてから、桜が首を擡げた。真っ青になっている。 「大丈夫ですか」  動転したままの頭は何を言っているのかは理解してもすぐさま言葉や態度で示せず、声も出なかった。震えるように頷くので精々だった。桜が下敷きになったため、頭は打っていない。代わりに彼が頭を打った。 「よかった…申し訳ございません」  肩が上下した。首を振る。それから自身の激しい息遣いに気付いた。 「御主人…?」  大丈夫だ。何ともない。やはり言葉も声も出なかった。顔や首に当てられる他意のない優しい掌が気持ち悪くなった。花火が上がったみたいだった。低く唸る。威嚇する猫が吹く嵐に似ていた。 「御主人…その…」  桜の上から退くことも出来ず、固く目を瞑った。制するように手を彼の目の前に出す。大丈夫なのだと言えなかった。それがさらに苦しくさせた。くらくらとしながら桜の腹の上から落ちる。口腔はからからに渇き、苦味さえ感じられた。だがお前の所為じゃないと言いたかった。事情を話すべきだろうか。逡巡した。一度、話してみる気になった。言葉はまとまらないままだったが、それとなく誤魔化すことも出来るはずだ。 ――あの使用人は?若いからなぁ、案外興奮しちゃうんじゃない?  桜の顔をみたまま思考が停止した。動きまでもが静止する。一体何を話す気でいたのか分からなくなった。何故彼に話すのだろう。紫暗にならばとにかく、この者に何が分かるだろう。 ――御主人の身体以外にあ、あ、あ、有り得ません。 ――誰であろうと他者の身を傷付けていいはずがないんです…たとえ自分でさえも……  優しく真面目な男だ。情けなさはあれど、寂しくなるほどに逞しくなった。叔父の親友だ。二公子に割って入るほどの度量だってみせた。 「御主人?」 「……わ、悪か、った。考えご、とを…していた」  喉が引き攣り上手く言えなかった。 「申し訳ございません…」 「いいんだ。すまないな。頭を打っていたが、平気か」 「はい」  立ち上がることは出来たが、節々に力が入らなかった。今にも膝から力が抜け、崩れ落ちそうだった。 「悪いが、腕を借りてもいいかな」  桜はびっくりしていたが了承する。気掛かりなようだった。 「大丈夫ですか」 「少し貧血気味なだけだよ」 「他の者に頼むことにして、離れ家へ戻られますか」 「いいや。ここまで来たから。すぐに治る」  桜の腕に腕を組んだ。あの幻影とは少し違ったが布越しに筋肉の反発を感じる。線は細いが紫暗とは違う肉感があった。徐々に、切羽詰った気分は解されていく。備蓄倉庫に入る前に部屋前で座っているように言われた。床に上着を敷かれてしまうと断ることが出来なくなり、嫌がっていた暗い部屋に入っていく桜の背を見ていた。自身の小胆さを思い知る。桜を信じられない罪悪感に打ち(ひし)がれた。
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