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第139話

 君は誰も救えない。それで君を、誰も救えない。  腕を掴まれ、捻じれらそうになる。肘へ意思とは反対の力がかかる。  権力の前に平伏そうよ。オレを認めて?それで受け入れて…  手首に皺と肉が寄る。鈴が皮膚へと減り込んでいく。  そうすればオレが、オレだけが、君を守ってあげられる…これからは、ね?  腰へ指を立てられる。そして腿へ。内股へ。爪がくすぐっていく。  それだけで、君はオレを救えるんだよ…?  鎖骨を齧られ、その後慰めるかのように舌が這う。下唇を弄んでいた濡れた唇が肌を吸う。  そんな方だったのですね…がっかりです…  鼻の奥が冷たくなる。長い睫毛の奥の瞳に侮られる。愛想笑いばかりの口元に嘲りが浮かんだ。板ごと包帯を巻かれた腕へと変わる。  襤褸雑巾です。あなたは、二公子の襤褸雑巾なんだ。  揺さぶられる。激しく。熱かった。石ころや草が背に当たる。土が蒸れていく。チャバネセセリが飛んでいた。塗り付けたような白い雲。宙を掻いた手が他人の硬い肉感に当たる。微笑まれる。顎が震えた。歯が鳴った。灼熱と極寒に襲われる。  枕が動いた。飛び起きる。自身の叫び声が遅れて自身の中に響いた。隣の布団が大きく寝返りをうった。紫暗に背を向けられる。彼女は、うん、とはっきりしない返事のようなものをした。嚥下が聞こえる。紫暗は寝付きも寝起きもよかった。 「御主人?」  夜目の中で桜の影が近付いた。 「補水液です。少し甘めに作ってありますから」  細い管を口元に運ばれる。極彩はこの補水液があまり好きではなかった。桜はそれに気付いているらしかった。管の先端を口に含む。糖蜜の甘さが強いがやはり不味かった。 「ありがとう」 「魘されていたので枕を動かしてみたのですが逆効果だったみたいですね。すみません…」 「いいや…おかげで起きられたわけだから。でも桜、お前は眠れなかったのか。起こしてしまったかな」  桜は首を振った。 「ちょっと目が覚めただけです。喉が渇いてしまいまして」  傍らに両膝を着き、極彩が補水液を適量飲むまでそこにいる気らしかった。 「桜…途中で寝てしまって構わないから、少し話、してもいいかな」 「勿論です。御主人からお話を聞けるなんて嬉しいです」  桜は姿勢を正した。極彩は苦笑した。 「ここで聞く気か。寝ていてくれ。わたしもそのほうが話しやすい」  布団に戻る姿を見ると、長屋で紅がしてくれたように自身のことを話した。季節の話。好きな場所。楽しい思い出。四季国と、王を伏せなければならなかった。それだけが少し惜しかった。桜は相槌をうったり、うたかなったりした。返事を求めることは言わなかった。だがそのうち寝息へと変わった。喜ばしくもあったが寂しくもあった。手首の鈴が軽やかに鳴る。ふわりと心地良い浮遊感があった。掛け布団に包容される。大したことは話していない。紫暗がいたため声も大きくはなかった。だが喋り疲れたことを実感した。  3人での朝餉は久々だった。時間帯的に少し早めだったが、それはすぐに紅の朝餉を届けるためだった。旨味の効いた昆布と胡麻で絡め、味噌で炒めた野菜。醤油で煮立て長ネギと鶏肉、人参や榎茸(えのきたけ)が入ったせんべい汁。そこに鰯の水煮と冷奴が付いた。朝餉の後、紫暗は二公子の元へと帰り、極彩は地下牢へ加工した朝餉を運ぶ。気が重かった。しかし地下牢前まで来ると警備の者が、別室を案内するように言付かっているらしく、以前二公子の機嫌を激しく損ねた広い部屋に紅が移動していると告げられる。警備の前も届く廊下に接した場所にあるためすぐさま身を翻した。彼は部屋の隅で、薄く古い粗末な布団の上で壁に背を預けて項垂れていた。その姿が長屋で生活していた頃に見ていたものとよく似ていた。周りには茣蓙やその他私物も運ばれている。 「紅。おはよう。遅れてごめんね」  彼の前に膳を置く。懲罰房で腹に蹴りを入れられてから彼は少し様子が変だった。無口で無愛想なのは変わらないが、纏う空気感が変わった。それを気拙さと帰結させるしかなかった。擂り潰したほとんど液体と化している飯と、具のない味噌汁、乾酪を絡め餅のような状態の蒸した馬鈴薯を平らげていく。紅はよく食べる。今日も少し多めに持ってきたくらいだった。共に暮らしていた時は小食だった。我慢していたのかも知れない。 「背中痛くしちゃうからね、わたしの布団、持って来るよ」  寝癖のついた髪を撫で付けるが直らず跳ねた。 「広いし、わたしもここで寝ようかな…なんてね。こんな所でひとりで寝かせることになっちゃって、ごめんね…」  紅の体格を確かめながら抱き締める。背や腰を彼女の手が這った。硬い腿にまで伸びる。自身の傷をなぞるみたいだった。まったく無関係な紅へ矛先が向いてしまっていた。 「ごめんね」  己が何をしているのかに気付くと無抵抗な、少年とも中年とも分からなくなってしまった元護衛をもう一度抱擁する。 「紅を置いてなんていかないからね」  彼はぼんやりと極彩を見るだけだった。赤茶けた髪へ顔を埋める。洗ってもらったらしく洗剤の香りがする。男性用頭髪洗剤で、柑橘と香草の清爽感が残る匂いだった。 「紅はいつもいい子だね。今日もいい子にしていられるかな。また来るから」  幼い顔は口を開かず縦に揺れる。決まった文句だった。低く見積もっても計算上30代後半に差し掛かっている、この同郷の者と再会し、その事情を把握した時から極彩にとって彼は弟になり、息子になった。 「今、布団を持って来るから」  紅の癖毛を梳いてから離れ家へと向かう。廊下に出てすぐ、地下牢に向かうらしき天藍に会った。息苦しさがあったが揖礼する。何も反応を示さずにいるだろうと思っていた。互いに無関心を装えるならばまだ楽な気がしていた。 「おはよう。今日も一段と綺麗だね。季節の変わり目で体調を崩しやすくなるから、気を付けるんだよ」  天藍は目の前で足を止め、顔を傾けもしなかったが最後に柔らかに笑いかけるためだけに極彩へ首を曲げた。そして地下牢に伸びる廊下を進んで行く。姿勢を低くして世話係たちが前を通過していった。鼻に新鮮な香木の匂いが届く。膝から力が抜けた。紅の移った部屋の扉の前で尻餅をついたまま動けなくなった。何度か瞬目した。離れ家への道程(みちのり)は大したことはないはずだというのに遠いような気がした。何より突然、意欲が喪失した。腰を上げることすら面倒臭くて仕方がなかった。 「大丈夫ですか」  天藍は侍らせている世話係たちとは随分遅れて別れたばかりの紫暗が散歩のような足取りで近付いてきた。極彩の傍で身を屈め、助け起こす。 「もう、行ってしまったよ」 「自分はいいんですよ。:(てい)のいい人質にさえなれば。他にも優秀な方々がたくさんいますし」  脚に力が入らないことを察しているらしく、紫暗は極彩から離れようとしなかった。 「どちらへ?一緒に行きます」 「離れ家に。紅に布団が足らなくて」 「極彩様が風邪をひいてしまいます。備蓄倉庫から出しましょう。自分がやっておきます。これから寒くなりますもんね」  円い目が細められる。彼女の身体と密着するのは心地が良かった。しかし、中間まで行ったところで紫暗がふと後方を気にした。幾度か振り返っては気難しく眉根を寄せる。
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