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第138話

 背後から色の付いた霰餅が散った。振り向く。そこに立っているのは二公子だった。 「洒落てるなぁ」  地面に点々と転がる霰餅の一粒を拾い、彼はそう呟いた。片手には細長い飛び道具が四指に挟まれている。 「誰も君を助けられない」  距離を詰められる。逃げた。呆気なくその間隔は開いた。 「さっきの人、誰?可哀想に。君の護衛?莫迦だよなぁ、二公子か雇い主か。どっちを選ぶべきかなんて目に見えてるのに。板挟みってつらいなぁ。これからはちゃんと敬わなきゃ、護衛のこと。でも失敗したこと許してあげて?さすがにオレが相手じゃ分が悪過ぎでしょ。前世で何やらかしたんだよ、ってくらいに」  ろくすっぽ話を聞いていられなかった。入り組んだ庭園の奥へと踏み入っていく。天藍は故意に足音を立て鼻唄をうたい、場所を知らせる。 「君は誰も助けられないし、誰も君を守れない。君は雄黄を死なせてしまったし、雄黄は君を傷付けた。可哀想だよ。君も、雄黄も。君は何も果たせない。何故ならオレがそうさせる。理解しなよ、君が何者だろうと、オレは広い心で受け止める…これからは。これからは、ね?」  道に迷い、曲がった先に天藍は立っていた。地面に倒される。乱れた胸元をさらに広げられ、衣類は崩されていく。下腹部を掌が伝う。視界が真っ白になった。余裕の手付きで下着にまで手がかかった。頬を舐め上げられる。天藍は動きを止め、極彩の髪に下から手櫛を入れ頭を押さえると連動するように共に首を傾けられた。耳のすぐ真横に短い作りの撃剣が刺さる。 「危な…」  事も無げに呟くと撃剣を抜く体勢を予備動作にし、後方へ剣を投擲(とうてき)した。直後に懐から新たな飛び道具を掴むと狙いを定めもせずに放ち、追撃する。質量のあるものが落ちる音がした。 「あららららら…証明しちゃった――誰も君を守れない」   正体を確認するでもなく天藍は片手で極彩を地面に張り倒したままだった。彼女は二公子から目を側める。そして物音の方を気にしてしまった。 「気になる?…確認してきてもいいけど…まだ生きてたら、その時は確実に殺す」  口調が急激に低く強いものへと変わった。 「運命が殺さないなら、オレが殺してやる」  身を剥がそうとした天藍を極彩は自ら求めた。衣類を開かれていく。腿に掌が添えられ、首筋に口唇を受け入れる。他人の体温が潰される。鈍くも鋭くも痛みが生まれた。背面にしなやな腕が回ると背や腹、腰を強く締め上げられた。草花と汗の匂いが鼻に張り付く。  腹の奥が痛んだ。唇ががさつく。髪には椿の葉や細かな枝が絡んでいた。空に晒したままの大腿から爪先までをみられているようだった。汚れた箇所を払い、乱れて衣類を簡単に正す。鈴が鳴った。手首は他者の手の形に染まっている。吐き気がしたが庭園の内部で胃酸をぶちまけることに後ろめたさがあった。喉が渇き、唾液が止まらず、鼻腔は痛痒い。すぐには立ち上がれず、座り込んだまま空を眺めていた。手首の鈴が鳴る。痣や汚れをどう誤魔化そうか考え、自己への言い訳も探っていた。しかし案は殆ど浮かばない。白い汚れをなすりつけたような雲を仰ぐばかりで頭は回らなかった。好きだった秋の、渋みを微かに漂わせた匂いが淀む。日が暮れていく。帰らなければならない気がしてはいたが、思うように身体は動かず、意思も伴わなかった。立ち上がって、手の届く範囲の土は払い落せたが後ろは腰までしか満足に払えなかった。節々が痛み、膝が震えて再び座り込む。鼻に残る香木の匂いがすべてのやる気を削いだ。営みを求める婿を裏切ってしまった。とはいえ婿とすらもそういう予定はなかった。他人事だった。手首の鈴が鳴る。覚悟は決めたはずだったが、予想外の時期だった。散々叱られていたのも全てに無にした。 「極彩様」  平生は朗らかな少女の声が日よりも早く、深く沈んで名を呼んだ。 「紫暗」  小さな身体が暗い中に立っている。呼び返すと、駆けてやって来た。勢いのまま抱き締められる。安らかで飾り気のない香りに包まれる。 「寒くなる。戻ろうか」  どの口が言っているのだろう。自嘲するしかなかった。すべての事情を察しているらしい紫暗は何も言わず、戻る気配すらみせずに極彩の背を摩り続けた。あの男のもとに身を置く立場で、おそらく遣わされたのだろう。何か大事なことを忘れているような気がして、億劫な思考は優先的に記憶の抽斗(ひきだし)を探り当てた。この前は酷いことを言って悪かった。この前のことを素直に謝ればよかった。だがこの場で言うには相応しくないような気がした。紫暗はゆっくりと抱擁を解く。顔を覗き込まれた。吊り気味の円い目が歪められていた。 「紫暗。風邪をひいたらわたしが看病していいかな」  小さく柔らかな手に手を取られる。厄介な構造を迷いなく引き返す。霰餅が散らばっていた。庭園を出て、紫暗は離れ家とは違う方向へ導く。 「紫暗?」 「今日は外に泊まりませんか」  門の傍まで来て紫暗は言った。二公子に(たばか)られた彼女は自由の身ではない。 「紫暗。ありがとう。でも…大丈夫だ。城に居れば安全だろう。この前みたいなことも、ない。…あの時は緊急だったとはいえ、酷いことを言って悪かったな」  どさくさに謝る。影絵と化した可憐な少女の表情は分からなかった。 「いいんです。そんなことはどうだって…極彩様が無事だったなら」  感情的に叫んだ。秋風が軽やかな毛先を靡かせる。 「助けに来てくれてありがとう。風邪をひいてしまう。中へ入ろう?泊まってくれるかな」 「もちろんです」  紫暗の背を抱いて離れ家へ戻る。桜は血相を変え、姿を現した途端に絶句していた。 「心配かけた。少し転んでしまって」  彼は口を開いたまま無言で何度も頷いた。どう思ったのかはそれだけでは分からなかった。 「すぐ、お湯を用意しますね」 「ありがとう。頼むよ」  桜は離れ家を大急ぎで出ていき、再び紫暗と2人きりになる。 「分かってしまったかな」 「本当に転んだものだと思ってますよ。おそらく」  本気なのかただ同調しているだけなのか紫暗は曖昧にするのが上手かった。彼女は桜が以前打ち明けたように互いに苦手意識があるようなところを、あからさまに態度や表情では示さなかったが薄々感じさせた。 「わたしのいない間、紅の世話をありがとう」 「いえ。お役に立てれば幸いです」  桜が湯を入れた桶を持ってきて、紫暗が受け取る。身を清めている間、桜を外に追い出さねばならず、それが悔しかった ――君は誰も守れない。  聞いていられなかったはずだ、疼くように耳に入っていた言葉が意味を炙り出されていく。執念深く抉るように舐められた肩の傷口を拭こうとしたときに胸元に散った鬱血痕に気付いた。数を数えるのも嫌になるほどだった。極彩本人からは見えなかったが首筋にも執拗に散乱している。嘔吐を抑えきれなかった。 「御主人?」  桜が玄関で心配の声を上げる。紫暗に背を撫で摩られながら数度に分けて床を汚した。 「大丈夫ですよ」  紫暗が代わりに答えた。 「すまない、桜…平気…」 「補水液を作ってきます」  凛とした声だった。玄関扉が開閉する。 「片付けておきますから、そちらで休んでください」 「すまない…」  紫暗が同室にいる。年下の小柄な少女が頼もしく見えた。だが彼女はいつだって頼もしかった。
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