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第132話

 離れ家に戻ると桜は読んでいた本を閉じ、極彩へ飛び付いた。 「すまなかったね」 「肩の傷はどうなんですか」 「もう随分といいよ」  置いていってしまった薬の袋が目の前に晒される。その奥で曇る顔があった。 「傷、診せてもらえますか」  声は沈んでいた。極彩は着替えるついでに華美な衣類を脱いだ。一言も声をかけなかったために桜は仰天して俯いた。着替えを終える前に肩だけを出した。しかし彼は服越しに腹部を凝視していた。 「桜?」 「あっ、いえ…」  何度か肩と脇腹を視線が往復し、しかし問うことはない。脱いだ時に見えてしまったのかも知れない。 「少し下手をうっただけだよ」  訊かれもせずに答えた。顔を赤くして、小さく謝られる。 「随分と大きな傷のようでしたので…」 「気になるか」  少し大袈裟に処置がしてあるだけだった。桜は重苦しそうに頷いた。腹の傷の面倒も看てもらい、服を着終える。返された荷物から出した鈴を手首に巻き、簪をしまう。婚姻届は入っていなかった。婿候補の色茶屋での様子を顧みると婚姻届の書き直しを頼むのは苦い感じがした。短剣は桜が部屋を空けた時に畳の下に隠すつもりでいた。 「あの…」  極彩からは死角にある定位置で本を広げている桜がか細い声を出す。 「なんだ」 「その傷…」 「大きくて3つあるな」  自嘲しながら揶揄うと、桜は乗らずに、「お腹のです」と語気を強めて言った。無意識に浮かべていた苦笑が消え失せる。 「その角度は、自分でやらないとなかなか、そういう風に刃は入らないんですよ」 「…偶然そういう角度になったということもあるだろう」 「それは、そうなんですけど…」 「言いたいことは分かった。けれど違うよ。理由がない」  言い淀む桜の疑いはすぐに分かった。言い当てられているようなものだった。敢えて自ら口にし、牽制する。書を捲る音がする。読んではいないのだろう。手慰みに捲っているだけのようだ。先程から頻りに頁を捲っている様子があった。 「分かりました。つまらないことを訊いてすみません…」 「構わないよ。わたしこそすまなかったな。嫌なことを思い出したんじゃないかな」 「いいえ…もう大丈夫です。ただ、御主人と同じ傷持つのも、畏れ多いですから」  会話を遮るように引戸が叩かれる。立ち上がる前に桜が目の前を通り、玄関へ出た。声からすると縹だった。使用人は流されるままに極彩の許可を取るのも忘れ縹を通した。まだ少し抜けたところのある逞しくなった若者に極彩の口元にもう一度苦笑が滲んだ。 「疲れているかも知れないけれど、すぐに確認しておきたいことでね」  桜は出ていくべきか否か判断がつきかねているらしく縹の奥でちらちらと揺れていた。そのため極彩は手招きをして隣へ座るよう促す。彼は座布団を縹へ差し出すと、叩かれた箇所へ腰を下ろした。縹は極彩へ意外そうに目配せをしたが本題へと入る。訪問者は波打った形跡のある三つ折りの紙を持っていた。婚姻届だ。何故縹が持っているのか。馬車だ。馬車に乗る直前の時だろう。手に入れられる、渡される時機があるとしたらその時だ。恍けて首を傾げる。 「これはどういうことかな」  口調は穏やかだ。だが機微に触れてしまう。桜も分かっているのかいないのか、緊張した面持ちで主人2人を見遣った。 「住所が東雲南区東中央4丁目…25番地…ここがどこだか分かっているのかな」  目の前で婚姻届を開かれ、住所の欄を指して説明される。困惑気味に問われる。桜は硬直していた。 「いいえ…空き地とか、ですか」  発言とは裏腹な行動を起こす婿候補の様子から、虚偽の情報を書かれた可能性は十分にあった。 「先程馬車に伝えたのはそっくりそのままこの住所だよ。君は誰と結婚するつもりだったのかな。この男は実在するの?本当にこの名で?」 「け、結婚…」  桜は顎を上下させ、控えめながらも狼狽し話の腰を折る。落胆している使用人へ縹は微笑を返すだけだった。 「お会いしますか」  縹がそれで安心できるのなら。身を乗り出して訊ねた。 「いいや。少し気にはなるけれど、君が選んだ相手なら構わないよ。こんな状態だからね。萎縮させてしまうのも悪い。相手方によろしく伝えておいてほしい」  婚姻届を極彩へ返し、まだ少し困っている微笑が紋様だらけの口元にあった。桜は縹をきょとんと見た。それからまた主人2人を見比べる。 「結婚式は、挙げられないけれど…個人的にひっそりとやるかい」 「いいえ。望んでおりません」 「相手方はそうはいかないだろう。手紙を認めよう。事情は把握しているのかな」  縹はわずかに桜を気にした素振りがあったが意を決したように訊ねた。 「…いいえ」  婿候補には何も話していない。話す必要もない。 「そうかい。分かった。邪魔したね。ゆっくり休んで」  縹は立ち上がる。桜も愛犬のように立ち上がり縹へ付いていった。数秒遅れて極彩も立ち上がる。玄関先まで出ると、叔父は姪へ耳打ちした。すまなかったね。首を振ることしかできなかった。桜は訝しみに固まった面で2人を見ていた。この婚約にただならぬ空気を感じ取ったみたいだった。帰っていく縹を見送る。桜はぎこちなさを御せていなかった。ちらりちらりと主人を気にしている。その視線に気付いてはいたものの、自ら詳細を語る気分にはなれなかった。確認した婚姻届には自署欄に見知らない住所が縹の癖のある達筆で記されていた。そこが実在する地区なのか架空の地名なのかも分からなかったが城の住所を書くわけにもいかなかったのだろう。「白梅」の名義で婚姻届を完成させる。指先を切って血判も押した。それから大窓を開け、乾いた空気に当たっていた。秋の匂いがする。 「身体を冷やします」  肩に桜が膝掛に使っていた薄布を羽織らされる。桜の定位置のすぐの脇の壁に大窓があるため、極彩は彼の目の前にいた。すっかり忘れていたため驚きながら振り返る。斜め後ろに控え、暗い秋の空を遠く望んでいた。肌の荒れが広がっている。銀灰の懸念がふと近くに感じられた。 「ちゃんと休めているか」 「はい。毎日ぐっすりですよ」 「そうか」  情けなく笑う姿は初めて姿を認めた時よりも頼もしい半分、どこかさらに幼くなった気がした。 「あの…、その…、どんな人なんですか…」  大窓を閉め、膝掛を返す。機嫌を損ねさせてしまったのかと焦っている使用人を見下ろした。 「わたしがか」  桜は首を大きく振って否定した。哀れみを誘う辟易した表情は後悔の念が窺えた。 「寝惚けていて、少し意地が悪いかも知れない。甲斐性はなさそうだけれど、のんびり――落ち着いた人だよ。歳は近い」 「御主人はその人のこと、好きなんですよね?」  桜は言うか言うまいか迷っているようだった。恋愛結婚できる立場にないことは知っているはずだ。それでもここで嘘でも吐けなければこの小胆ながらも時折押しの強い若者は気を揉むだろう。 「好きだよ。とても」  不安げな色は消えないまま、彼の目は泳ぐ。 「…そう、ですか。それなら、よかった…僕も安心です」 「お前にも好い人が見つかるといいな」 「僕は…結婚、しません。この身はずっと御主人と縹様に捧げると決めているんです」 「今決めたって、分からないものさ」
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