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第130話

 目覚めるとまったく見覚えのない部屋にいた。漆喰の壁とも木目が穏和な天井とも違う。無機質という印象だけが残っている。首に重みがあり、鎖が伸び、寝かされていた寝台の柵に繋がっていた。ていた。腕は自由になり、服を着せられていたが、袖に華美な装飾が施され、透かし模様の生地が段々になった服飾襞から覗いていた。部屋は暗かったが、人ひとりは吸われそうなほど広い桟を持った窓から光が入っていてまったく視界が利かないというわけでもなかった。皺の寄ってしまった絢爛な衣装に戸惑いながら室内を見回す。寝台と扉しかない。不穏な空気が狭い密室に充満している。動いてみたが寝台を降りられるくらいの長さしかなく、部屋の扉までは届かなかった。監禁されているのだと他人事のように思った。紅のことが脳裏を過り、芋づる式に紫暗のことが浮かんだ。そして城には帰れそうにないことを思った。婿候補を見倣い、ぼけっと壁と天井の境界を眺めて時間を潰す。窓の奥が赤みを差した頃に扉が開いた。宗教家とも監視役とも雰囲気の違う服装で、襯衣(しんい)の襟元が少し崩れていた。赤い淵の眼鏡も針金のように細く暗さに溶け込み、硝子部分が角張って鋭く冷淡な印象を穏和で端整な顔立ちに加えている。彼はゆっくりと寝台の周りを回った。極彩はそれを目で追った。 「何か欲しいものはありませんか」 「…窓辺にあった金魚鉢…」 「分かりました。すぐに持って来ます」  朗らかな微笑を浮かべ、彼はやって来て早々に部屋を出ていった。少ししてから扉が開き、金魚鉢を抱えた翡翠が現れる。窓辺に球体の水槽が置かれ、極彩は中を泳ぐ小魚を眺めた。餌の袋も共に並べられた。日が沈んでいく。翡翠は寝台の端に腰掛けたまま物思いに耽っているのかずっと黙り込んでいたがそのうち無言のまま退室していく。部屋が真っ暗くなると蝋燭のような赤みを帯びた弱い明かりが点いた。 明日には帰らねばならないだろう。帰らなければどうなる。縹や桜、紫暗のことが重苦しく感じられた。何も心配しないでほしい。彼等はきっと心配する。確信するどころか、疑いもなかった。それが重かった。息苦しい。無事だと伝えられないのが苦しくてたまらなかった。寝台の柵を壊してでも彼等に伝えなければならない。金属でできた柵を揺する。耳に痒いほど甲高く軋んだ。扉が開く。翡翠は椀をいくつか乗せた盆を持っていた。柵を揺さぶる極彩を黙ったまま見つめ、ゆっくりと寝台を半周した。幅広く奥まった窓の桟に盆を置く。耳障りな金属音を奏で続ける女の顎を捕らえ、深く口付けた。寝台の悲鳴が止む。はく、はく、と強張った身体は息を急いた。柵を握ったままの拳が小刻みに震えた。柔らかい。そう呟いて離れたかと思うと、もう一度だけ触れた。極彩は固まったまま、苦悩を示す昏い顔を凝視していた。 「性分(たち)の悪い強姦魔め!恥を知れ!」  霊感に打たれたように女は叫んだ。転倒するように身を翻し、多少の差異で段になっている服飾襞だらけの裾に覆われた脚が陰気な男の横面を蹴った。空気を大きく含んだ生地が弾む。逃げも除けもしなかった。起き上がりついでに蹴りとは反対の頬を叩く。一方的に殴られ続け、女の気が済むと翡翠は盆に手を伸ばし、甲斐甲斐しく極彩の口に食事を運んだ。手の自由はあるというのに、木製の匙で米や解された焼き魚を器用に掬い、咀嚼や嚥下を待つ。沈黙の中で小さな音が溶けていく。火傷をしない程度には冷まされていたが翡翠は息を吹いて大して熱くもない茶碗蒸しを口内へ置いていく。薄切りの椎茸と海老が入っていた。食後は口元を拭い、保湿剤を塗った後に始終無言のまま盆を下げていった。風呂の時間まで帯同するのだった。監禁されているはずが翡翠は奴隷のように立ち振る舞い、風呂上りは丁寧に髪を乾かすと油を塗り込んでいった。同衾しながら寝付きのよい奴隷は人形の毛並みを整えながら眠りに落ちていった。奴隷の首を覆う火傷の痕に触れた。人懐こい猫のようにゆっくりと目を開き、そしてまた静かに時間をかけて目を閉じる。  着せられる衣類は寝間着でも装飾過多で華美だった。食事は全て手の込んだ料理で口元まで運ばれ、よく熟れた果物が付いた。風呂は脱衣所でずっと待っていたが裸体を見たり触れたりということはなかった。日が昇るたびに湯鬱で、日が沈むたびにどうでもよくなった。そういう生活が4日ほど続いた。5日目の昼頃、金魚鉢に餌を浮かべ小魚を眺めていると、奴隷のような飼い主が現れる扉から小麦色に焼けた肌の大柄な男が入ってきた。恐怖を感じ、掛け布団を抱いた。垂れた目が室内を泳ぎ、唖然としていた。外跳ねの鬱陶しそうな黒髪の男は親しそうに笑みを向けた。極彩の目に追われ、おそるおそる部屋を歩く。 「あんさんの叔父貴が探してたで」  分厚い手が伸びてきた。暫く、日に焼けていない肉色の掌を見下ろしていた。 「帰ろうや」  男の顔を捉える。掌に手を重ねた。焼けるように熱かった。手を引かれ、男の傍に寄ると、大きな手が首輪を繰る。肩が凝りそうな重みが消えた。真っ赤に照る輪が小麦色の腕にぶらさがっていた。 「叔父上は…?」 「一緒に来てまさ」  胸で固まっていたものが溶ける感じがあった。 「ありがとう」  金魚鉢を一瞥してから桃花褐に支えられながら、部屋を出る。平屋の形を囲うような長い廊下を抜けると居間に至る前にある玄関の突き当りに出た。敷地を外に馬車が停まっていた。外の眩しさに目を眇め、装飾の多い袖を翳した。開け放たれた玄関の奥から縹が出てくる。それを見ていると、ふと身体中に微風に似た悪寒を走った。隣にいる桃花褐を見上げる。なんだ?といったふうな垂れ目がわずかに下がる。足が勝手に彼の前へ踏み出る。熱が肩を後方へ引く。目の前が一瞬、光を遮った。翡翠が眼前に迫っている。掌底が寸前で止まっている。風圧に髪が揺れた。 「極彩っ…!」  縹が慌てたように叫んだ。足早に駆け寄ってくる。据わった目が縹へ向いた。 「…お久し振りです」  好意的ではない表情で縹が先に口を開いた。しかし相手は何も言わずに極彩へ目を戻した。 「城へ帰ります」  彼は目を伏せるだけだった。 「ありがとうございました」  礼を口にする。翡翠は地面を凝視していたが、そのうち細長い布袋を出した。受け取り、中身を確認する。短剣、財布、簪、紫雷教の鈴。私物すべてがまとめられていた。 「お世話になりました」  桃花褐に庇われながら馬車へと乗せられる。その間中、縹は動かない翡翠を警戒していた。 「大丈夫かい」  遅れて馬車に乗り込んだ縹が問うた。極彩は頷く。 「それなら、いいのだけれど」  縹は極彩の脇の席に座っていたが、極彩と同じ座面で隣に座り、彼女の膝の上で組まれた両手に片手を重ねている桃花褐を気にしていた。厚く体温の高い手は冷たい両手を摩り、桃花褐自身は縹の対面にある車窓を眺めていた。誰もが沈黙を守り、蹄の音が小気味よかった。 「ご心配、おかけしました」  縹へ頭を下げる。絞り出すような掠れた声だった。少しずつ頭の整理がつき、言うべきことを言えていないことに気付く。縹は色素の薄い髪を揺らす。その奥にはまだ刺青と見紛う痣が色濃い。 「心配なんてしていないよ」  縹の返答に、外を望んでいた桃花褐が小さく噴き出した。 「桃花褐さんも…」 「心配なんてさせときゃいいんさ。あんま気にしなさんな」  桃花褐が彼女の背を叩く。縹の眉間が引き攣った。  馬車が城へ着く。城門前の雰囲気と匂いは新しい感じがあった。縹は極彩を先に帰し、桃花褐を呼び止めていた。何をするのかと、振り返ってしまう。帰りの牛車代を渡し、頭を下げていた。眼球の裏が沁みるような、捩れるような感覚に陥った。
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