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第129話

「どうして、桃花褐さんを傷付けたんですか」  彼は姿勢を崩さなかった。無視を決め込んでいるのかと思うほど微動だにしなかった。しかし数呼吸遅れてから組んでいた脚を下ろし、極彩に対する。 「まさかとは思いますが、あの男に惚れているわけではありませんよね」  大きく顔を顰めざるを得なかった。この者にここまで不快なことを言われたことは今までになかったような気がした。恩のある人へ向ける表情ではなかった抑えきれなかった。つまらないどころの質問ではない。それでいて的外れで、質問の答えにはなっていない。 「惚れていたところで貴女に自由はありませんが」 「…そうですね」  牛車が停まり、目的地へ着く。停留所の目印には『東雲南区第三停留所』と書いてあった。牛車を降りると手枷を嵌めらているのとそう変わりのない強さで手を掴まれ、歩かされる。歩幅にも速度にも気遣いがなかった。弁柄地区に並ぶ住宅とはまた違った風情のある、不言通り近辺の家々より造りのよい住宅地を抜けていった。来たことのある立派な平屋に入ると、翡翠は極彩を玄関に放り、施錠した。何度か鍵が空回っていた。 「翡翠さん?」  どこか落ち着きがなくそそっかしい。彼は険しく、しかし思い詰めた表情をしていた。声をかけても気付かないらしかった。 「貴女は…」  声を出すのも苦しいといった様子で居間へ促される。以前来た時と変わらない内装だった。隣接した部屋と併せただけでも庵全体より広い。その部屋の中心には布団が敷かれていた。綺麗に整えられている。敷居の直前まで背を押された。診療所で言われた言葉は離れない。 「一度抱かないと、気が済まないというわけですか」  投げやりに問うた瞬間、足首を掬われる。痛みも感触もなかった。ただ足首を風が吹き抜けていったという感覚だけだった。布団の上に倒れ込む。 「俺の心を、掻き乱すな…っ!」  力づくで仰向けにされ、胸座を掴まれた。彼の姿は逆光していた。見たことのない形相をしているのだけが薄らと分かった。腹の底に低い怒りが響く。理不尽な要求だ。彼の心を掻き乱した覚えは彼女にはまるでなかった。眉を顰め、翡翠の怒りに対峙する。 「わたしにどうしろと言うんです」  翡翠の腕が胸元から離れ、覆い被さっていた上半身も退いた。 「誰にも渡さない…」  独言がはっきりと聞こえた。ダレニモワタサナイ。もう一度、彼は呟く。 「わたしは誰にも渡されていないのに?」  彼の手には太い縄が握られていた。手首の鈴が場違いな音をたてた。強姦魔に首を絞められた苦しさが本能的な恐怖をそこに現した。 「ずっと監視役に徹して、錯覚でも起こしているのでは。…欲望のままに女を抱きたいというのであれば、どうぞ」  約束を破ってしまう。重りにはなりたくないと、人を見透かす垂れ目が小憎らしくなった。すでに重りになっている。だが破ってしまえば、おそらく慣れてしまう。そういう気がしていた。 「感謝しているんです。翡翠さんになら喜んで」  手首の鈴が鈍く鳴った。節介な熱を忘れられない小指が炎症を起こしたみたいに他の指の体温と合わなかった。その手で衣を脱ぐ。 「後悔は、しないと思います」  翡翠はわなわなと震えていたが、気を遣っている余裕などなかった。身体は痣と傷が目立った。肩の包帯を解き、腹の傷に当てられていた綿を外す。下着に手を掛けると、薄布が投げられる。 「ふざけるなっ!」  叫ばれ、頬を張られる。両手首を力任せに束ねられ、繊維の粗い縄が肌に喰い込んだ。 「反省していろ!」  薄汚れたたぬきのぬいぐるみを投げつけられた直後、びしゃんと襖が快さすら感じる音をたてて閉まった。反省するようなことなど何かあったかと反芻はしてみるものの、はっきりこれだというものが見当たらなかった。窓辺に置かれた金魚鉢の中の金魚を目で追いながら、城に帰るのが最善だったのかと答えを出してはみるものの、それも半信半疑だった。予定では明日、或いは今日、日が昇ったら帰るつもりでいた。自由の利かなくなった腕で埃っぽいたぬきのぬいぐるみを抱き締めた。目は冴えていたが、少しの間鼻唄をうたい、いつの間にか眠っていた。小さな物音に意識は浮上したが聴覚とわずかな思考だけだが働いた。布団を踏み衣擦れの音はかなり近い。背中が温かくなる。脇腹が重くなり、じきにそこも温かくなった。安らかな寝息が聞こえる。金魚鉢の奥の障子が眩しくなり、目が開いた。起き上がろうとしたが腹に強い力がかかっていた。人の腕が垂れている。首を後ろへ曲げた。同じ体勢を保ち続けていたため肩が凝っていた。穏やかな息遣いが耳の裏や首筋をくすぐる。 「翡翠さん?」 「…っもう少し、寝ます」  極彩の背に顔を埋めているらしく口が動くたびにむず痒い。身を引こうとしたが翡翠の拘束は固かった。 「お仕事があるんじゃないんですか」  翡翠は左右に頭を振った。辞めてきました。大したことでもないというふうだった。 「辞めたって…辞めたんですか」 「うん」  甘えた声音で簡潔に肯定する。数時間前まで怒鳴り散らしていた男とは思えないほどに幼い仕草で首肯もついていた。 「辞めちゃったんですね」 「まだ娼館は……2人で暮らそう…」  縛られた両手に手を伸ばすが届かず、掌が掴んだ素肌を撫で摩る。 「娼館?」 「2人で暮らそう…」  寝惚けているらしく呂律は回っていなかった。甘えた声のまま縋り付く。 「不自由させないから…」  肩を吸われる。それからまた寝息が聞こえた。欠伸を繰り返しながら身を揺すって起こそうと試みたが、彼は心地よさそうに眠っていた。思いがけず第三の職が明かされたが、多忙な日々を過ごしていたことを思うと起こす気は削がれていく。 「翡翠さん。ちゃんと寝たほうがいいですよ」  身体に絡み付く腕を振り払い、不愉快に眉を顰めた翡翠の図体を布団の中心へ引っ張った。しかし叶わず、拘束された腕を掴まれ、翡翠の腹に吸い込まれる。咄嗟に両肘で受け身をとってしまい、男は微睡(まどろ)みを妨害され低く呻いた。 「翡翠さん」 「もう少しだけ…」  甘えた声のままで普段の翡翠との落差に違和感が拭えず、寒気すらした。 「そろそろ城に戻る支度をしたいのですが」 「ここで、2人で暮らすんです」  眠ったまま、極彩を引いて胸元に押し付ける。 「翡翠さん?」 「誰にも渡さない…叔父御も貴女を、女として見ているし…あの使用人だって、三公子ですら貴女を…」  繊細に手櫛が髪を梳いていく。 「ですが、わたしが選んだのはあの“競売品”です」 「嫌だ…」  弱々しく言い、抱き竦められてしまうと大きな子供を相手にしているようで、弱ってしまった。 「城に戻ります」  甘えたな腕を払い、立ち上がる、両手は扱いづらいが脚は動く。衣類は着づらいが裸ではない。道行く人々に解いてもらう手もある。襖を纏まった両手で開いた。彼ならば行かせてくれると思っていた。仕方ないと陰険に微笑んで。 「行かせない」  首に衝撃が入る。抗いがたい強い眠気に似た浮遊感。均衡を失い、居間に転がる。擦り切れた卓袱台の脚が視界に入った。鮮明に見えていた畳の目が霞んでいく。黒い靄が端に入り、頬を滑らかに撫でていった。 「2人で暮らしましょう…?」 ――姉さん
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