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第128話

 会館の奥へ通されると寝泊まりできる部屋があり、藺草(いぐさ)の匂いがこもっていた。綺麗に片付けられ会館の外観と比べると清潔感があった。小さな台所と湯浴びだけだが浴室もある。屋根があるだけで十分だと思っていた。安堵感が押し寄せる。 「俺ァまた仕事だから。若ェのには言っとくから、ま、遠慮すんなや。もう紫雷教徒(きょうだい)なんだからな」  桃花褐は言うことだけ言うと、踵を返す。 「本当に、ありがとう」  手首の鈴が鳴った。 「…天の恵みに、感謝を」  左の肩、そして右の肩に人差し指と中指を重ねて当てると、額に触れ、そのまま下降し指の腹に接吻し真上へ投げる。変わった動作だったがそれが紫雷教の挨拶らしい。 「あ、…その、行ってらっしゃい」  廊下を歩いていく背中に小さく言った。彼は笑った。行ってきまさ。呟くような返事だったがしっかりと耳に届いた。借りた部屋に入ると大窓を開いて雨の音を聴いていた。腹の傷は相変わらず痛んだ。長い間ぼうっとして、それから横幅の狭い3段になっている本棚から1冊選んだ。難しそうな宗教入門書ではなく、子供向けの動物図鑑だった。四季国でのことが蘇った。異国から入ったという写実的な挿絵の載った動物図鑑を並んで、暗記するほど読んだものだった。まだ将来のことすら考えていなかった。城を出て、外で暮らすのだと漠然と思っていたし、それが義務だと思っていた。ただ国の外で暮らすとはまったく考えもしなかった。明るく優しい、少し年上の夫と暮らすものだとばかり思っていた。実際はそうならないのだろう。未来を見定める力は極めて低く、勘はひどく鈍いようだ。図鑑を開いたまま固まり、白く明るい空を仰ぐ。雨音は落ち着いたが身体の節々や古傷が痛んだ。   日が落ちる頃に桃花褐が戻ってきた。襖が狭く開き、ぬっと顔を突き出すと、袋を渡す。中身を確認すると弁当だった。用は済んだとばかりに桃花褐は突き出した顔を引っ込める。 「桃花褐さん」 「ちゃんと食って、ちゃんと寝ろぃや。それがまず最初の修行だぃな。健全な精神は、健康な肉体にのみ宿るんでさ」 「…あ、…りがとう。その、おやすみなさい」  襖の奥で桃花褐はふざけたように唇を尖らせていた。 「おやすみ。襖、内側から鍵掛けられっから。一応な。用心するに越したこたねぇやな」 「うん…」 「じゃないと、イケナイ狼さんが食べに来ちゃうで」  極彩は狭く開いている襖をさらに開いた。桃花褐は垂れ目を瞠り、少し情けない面をした。 「桃花褐さんには、本当に感謝してる…その、わたしで、何か…返せるなら…」  上手く言えなかった。翡翠から言われた言葉をどう言い換えていいのか分からなかった。女だから。欲望の対象。女だから… 「夜伽でもしますってかい?」  桃花褐は呆れたように顔半分を大きな掌で抱える。 「おいおい間違えなさんなな。そうならないように、ここに泊めるって話なワケ。分かってる?お兄さんとの約束。不本意に身を捧げない。ほら、小指出しな」  桃花褐は小指を前に出す。おずおずと極彩も熱いくらいの小指に自身の指を絡める。 「ま、破っちまっても針は飲まさねェけど。嬢ちゃんの良心の重しになるつもりはねェんでね。その辺はあんさんの自覚の問題ってこったな。俺の誓約は利かんわ」  軽快に笑った桃花褐は帰っていく。その日はよく眠れた。静かな夜で、肩と腹の傷は痛んだが気を失ったように眠りに落ちたというのに意識の薄らいでいく短い時間が心地良かった。しかし外観を覆う亜鉛鉄板が大きく鳴り、纏わりつくような眠気もなく清々しく目が覚めた。木枯らしかと思われた。話し声が小さく聞こえた。足音が近付いている。透けた生地でできた薄幕しかない大窓の奥はまだ夜更けの色合いをしていた。 「嬢ちゃん、起きてっか」  足音は部屋の前で止まった。囁くような声量で問われた。起こすつもりがあるのなら、寝ている人間には聞こえないかも知れない。 「起きてる」  襖の内鍵を開けようと抓みに触れた。だが桃花褐は開けなくていい、と言った。 「寝たフリしとけ」 「何?」  行動と言動からでは目的がさっぱり分からなかった。 「迎えが来たんでさ。ンでもな、この時間だぞ?変じゃねェ?」  迎えと言われてもすぐに誰のことだか分からなかった。ふと頭に浮かんだのは二公子だった。 「寝ているのなら、そのまま抱き上げて連れてゆきますが」  冷たく言い放つ声は翡翠だった。足音もなかった。 「襖、鍵掛けるよう言ってあるんでね。時間を改めていただけっとありがてェんですが」 「壊せばよろしい。弁償はします」 「おっと~?河教(そちら)さんは知りませんが、まぁ紫雷教(うち)でなくとも、物はなるたけ大事にしろって教えがあるもんで」  桃花褐はおどけて返した。 「彼女をここへは置いてゆけません」 「保護者としてならそうでしょうな。反論の余地もございませんや。ただ時間帯ってものがありましょうが。夜のお仕事の方ってェなら、何も言えやしませんけどね」 「意外でしたね、紫雷教さんの実態が託児所だったとは」  極彩は内鍵を解いた。鍵穴に抓みを挿し込み、回している間、桃花褐は「おいおいおいおい」と呆れた声を出していた。開錠し、襖を開けると桃花褐は肩を竦めていた。廊下に無表情の翡翠が立っている。何と声をかけていいのか分からず、立ち尽くす。互いに無言だった。 「寝呆けて転びなさんなな」  第三者によって沈黙は破られる。顔半分を厚い手で抱え、やれやれと首を振る。 「宿代です。彼女がお世話になりましたね」  翡翠は音もなく2人の目の前に立ち、紙幣を置いた。 「別にうちは託児所でも宿泊所でもねェんですがね」 「ならば、ワタクシからの謝礼です。それともまた別の方法で何か受け取りましたか」  極彩は俯いた。桃花褐の帯びる雰囲気が尖り、彼女の肩に優しく触れると翡翠との間に一歩進んで割り込んだ。 「おっしゃってる意味が分かりませんや。勉強不足ですみませんね」 「それなら結構。受け取ってください」  行きますよ。翡翠は冷淡に言って、背を向けた。極彩はついて行くべきか留まるべきか迷った。 「その男にもう一度拳を叩き込まれたくなければ、来なさい」  戸惑いを見抜かれる。そして初めてそこで桃花褐が負傷していることに気付いた。見上げてしまう。互いに目が合った。事も無げに切れた口元を吊り上げ、快然と笑んだ。 「ありがとう、桃花褐さん。でも、ごめんなさい」 「気ィ付けろ。いつでも来たらいいや」  手首の鈴が鳴る。荷物を持つと廊下を急いで出て行った。会館を出た先に翡翠は立っている。雨は止んでいたが地面はぬかるんでいる。極彩が出てくるのを目にすると進んで行ってしまった。何も言わない。何か話す気も起きなかった。時間帯的にも場所的にも気候的にも特別料金になってしまう牛車に乗せられ北上する。行先は淡香寺ではなかった。城に連れ戻されるのかと思ったが、牛車は北東に向かっていく。対面に座る男は長くしなやかな脚を組み、車窓の奥を眺めていた。その横顔から真意を探る。手首の鈴が鳴った。分からなかった。別れ際の言葉から結局、彼の欲望を満たすため、という回答しか浮かばないのだった。自身の小指に絡み付いた肉厚な小指の感触が忘れられない。口唇を切らし痣のある笑顔で見送られてしまった。恥じるような真似はしたくなかったが、場合によっては、厭わない気でいた。
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