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第127話

「皆、貴女を心配してるんです。それが分からないんですか。貴女の叔父御、世話係、使用人。真剣に向き合おうとは思わない?」  翡翠は感情的になっていた。普段の透かした態度で十分だった。保護者のような口振りが重苦しく鬱陶しい。 「重いんですよ、そういうの。ありがたいですけど、肝心な時にばかり重いんです」  舌打ち。自身が思い余ってやってしまったものかと思ったが、音の主は翡翠だった。病衣が左右に開かれる。頭が真っ白に爆ぜた。素肌と包帯が怒りに満ち満ちた目に晒される。寒さに身を抱く。 「分かりました。保護者ごっこはもうやめです。俺も結局はただの(おす)ですからね」  ぎらぎらと燃え滾っている眼光は些細な動作ひとつ逃すまいとしていた。 「それでも保護者役であるから、夜中無防備に眠る貴女に手を出さなかった。ひとり部屋に籠る貴女を見ているだけだった。貴女を庵に入れた。何もせずに夜を過ごした」  割り開かれた左右の病衣を乱暴に掴み、揺さぶる。腹の傷に響いた。肩の傷もまだ完治していない。 「わたしを、欲望の対象として見ていたわけですか」  憤怒の形相が一瞬にして虚を突かれたような顔へ変わった。だがすぐにまた激怒に燃える。 「貴女が女である以上、そうです。昨夜の男だってそうでしょう。貴女が女だから、逃げもせずそのまま、事に及ぼうとしたんでしょうね」 「女だから…」  胸を強く殴られた気分だった。昨夜本当に喰らった殴打など蚊に刺されたようなものだったのだと感じられるほどに、翡翠の言葉が鋭く痛んだ。縹にも一度同じようなことを言われたことがある。項垂れた。確かに、手も足も出なかった。力量と体格の差がありすぎた。紫暗が来なければおそらく陵辱の果てに殺されていたかもしれない。 「そうです。貴女が、女性だから。今だって、貴女が女である以上、俺は貴女を欲望の対象として見てしまう。それ以外にありませんよ、美醜も貴賤も関係ありません。ただ、欲望の対象だから。一度欲望に火が点けば、秩序も法も人格も、簡単に吹き飛びます」  胸座(むなぐら)から手が退き、寝台の斜面に背を打った。腹の傷に響いた。 「正式に解雇の通達が出ました。乗りかかった舟で、貴女と共に在りたかったのですが、泥舟では仕方がありませんね。重荷であるのと言うのなら、ここでお別れです。…さようなら」  翡翠が去っていく間、極彩は上の空で細長い管に繋がれた手元を眺めていた。 「さようなら」  そう口にしていた。何かひとつ、軽くなったような気がした。  支払いはすべて済まされていた。退院は勧められない状態とのことだったが色街の診療所は簡単な書類で解放した。早期退院の直後、いかなる容態の急変が認められても患者自身の自己責任という旨の誓約書に署名し、診療所を出る。着替えは翡翠が城から持って来たらしかった。短剣を庵に置いてきてしまっていることを思い出したがあまり焦りはなかった。何も予定はない。だが城にはまだ戻れない。帰る場所はもうないのだ。帰りたくない。どこにも。何故城に帰るなどという発想に至っていたのかも分からなくなった。不言通りを南下する。風月国の外にある森林を抜ければ故郷に辿り着くような気がした。森を目指した。目指すだけだ。すぐに戻る。きっと飽きて。きっと疲れて。森にまで至らぬうちに。風月国の外にも至らぬうちに。不言通りすら抜けきれないうちに、おそらく。故郷は滅び、城ではやることが沢山あるのだ。どこに帰るべきなのかは瞭然としている。腹の傷が痛んだ。肩の傷が痺れた。顔面の傷が疼いた。膝が力を失くし、地に這った。身体から鈴が鳴る。行き交う人々の視線が刺さる。気遣う声もあった。銭が子供の手によって近くへ置かれた。周りに人は大勢いた。だが強い孤独感に苛まれる。だが自由の喜びがそれを少しずつ阻んだ。(しがらみ)から解き放たれたような気になっていた。帰る場所は城しかない。故郷はもうない。何故。この国に滅ぼされたではないか。ならば今、どこに帰ろうとしている。手首に巻いた貰い物の鈴が鳴った。何が自由なのだろう。帰る場所も選べていないではないか。自ら腹を突き破った時とは違う涙が溢れた。地面にしみを作る。咽びながら、笑いが止まらなくなった。嗚咽しているのか、笑い声を押し殺しているのか曖昧に唸り、小刻みに肩が揺れた。人波が石に出会った川の流れように二手へ別れていく。お姉さん、うちで働かない。影が脇に落ちた。黒い紙に金の印字の名刺を置かれる。もうすぐ新しく開くんだけど、お金に困ったら連絡して。勧誘者は必要なことだけを言うと去っていく。名刺を拾い、握った。雨が降り、古傷の痛む原因を知る。好きな場所へは帰れない。名刺を握り潰す。女だから。翡翠の言葉に息が詰まった。女だから。分かっている。実際敵いそうもなかった。手首に巻いた鈴が鳴り、目元を拭った。 「よっ、昨日ぶり」  部分的に雨が止む。色付いた影が落ちる。低いが朗らかな声がした。 「金木犀の香りに誘われちまったよ」  極彩は反応を示さなかった。なんつってな。男は笑う。 「呼ばれた気がしたんでさ」  雨の模様が付いている石畳へ男は跪く。 「…呼んでない…」 「はっはっは、じゃ、俺の勘違いですな」  男は腿の布で掌を摩り、拭うと手を差し出した。おそるおそる、その手に己の手を重ねようとした。だが惑った。下ろす前に捕らえられる。 「来たらいいや?」  極彩は首を振った。帰る場所はない。選べないなら、どこにも帰らない。 「何もしないって。ちょっと雨に濡れない所に行くだけだから。雨に濡れるとかわいい犬っころになっちまう体質なんさね」  女だから。貴女は女だから。帰る場所がない。男は、今の冗談な、と遅れて小さく言う。 「いいよ。…何かしても」  肩を2度ほど優しく叩かれた。 「そんなカオしてる嬢ちゃんに手ェ出すほど、逼迫してねェんだわ。求めてくれてんなら、別だけどよ」  肩を掴んでいる熱い掌に頬を寄せる。引き留めた下僕紛いの若者の手とは硬さも質感も温度も違っていた。顔を上げる。秋でも暑苦しそうな黒い癖毛が濡れている。鳶色の傘が差し出されていた。 「でっかい赤ちゃんだな」  四つ這いのままの極彩を抱き上げ、傘を握らされる、人々の目を引いた。少し腫れた目元を桃花褐へ流す。 「家出か」 「…なんで…」 「紫雷(しでん)教入っちまったもんだから、河教(あちら)さんの寺っつーか、(どこ)教関係なく、追い出されんのは目に見えてんだろ。そんな子に育てた覚えはありません、ってな具合にな」  答えは合っているが、内容は違う。 「少しくらいなら俺ン()置いておけるぞ、暫く帰らねェからな。どうする?」 「ううん…ありがとう。でもさすがに悪いから」 「嬢ちゃん放っておくほど悪ィ提案とは思わねェけど、ま、会館使ったらいいや?話通しておくし」  どう返事をしたものか迷っていた。 「俺に善徳積ませた気にさせてくれよ。ここで、はいさよならってのも少し寂しいしな。空の恵みに感謝を」  耳に痛かった。極彩の気持ちなど知る(よし)もなく桃花褐は笑う。 「決まりだな」  頷いた。
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