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第126話

 怒声と雄叫びを遠くに聞きながら、隙の出来た間から後退して脱出した。簪を拾い上げる。逃げようとしたが、膝を蹴り倒される。肉厚で頑丈な両手が首に回りそうになるが、潜って躱す。視覚が明滅し、極彩は踊るように目に刺さったままの割り箸を膝で蹴った。振り払われ、ぶつかった勢いのままに舗装道路に倒される。力量の差に、全てが思うようにいかなかった。両手が首に回った。血液や涙や涎、組織液が顔や首を汚す。苦しさに腹がせり上がる。腕が簪を放そうとし、握り直した。しゃらしゃらと甲高い音が鳴る。楽器のようだった。吐きそうになりながら、簪を男の首へと突き刺す。脈を外し、耳のすぐ下を貫いた。首を絞める力が強まり、極彩もまた簪を突き刺すことだけに集中した。 「ぐ…ぅ、ぅっ」  舌が縺れる。息苦しさに呻いた。だが突然、男が耳を劈く怒号を上げる。舗装道路へ転がり、のたうった。目の前には小柄な女が立っていた。極彩は呼吸を整えながらその小さな体躯の輪郭を辿る。妓女たちの滑らかな手とは違うまだ幼さの残った手に握られた刃物を毟り取ると、転がりながら反撃を試みた無頼漢に穿った。暴れた腕に2度目の裏拳打ちを喰らい、顎が鳴いた。硬い肉を破る反動に掌も刃物の上を滑り、鋭い痛みが走った。 「極彩様」  大好きな声だった。傷付いた手を包み込まれ、刃物を奪い返される。可憐な少女がまだ喚き叫ぶ男の腹に小刀を入れ、そのまま大きく裂いた。咆哮。少女は外灯に照らされながら、極彩へ笑った。 「紫暗」  凍えるほど一気に寒くなる。 「怪我はないですか」  紫暗は男の首に刺したままの簪を抜き、自身の暗い色の外套で体液を拭うと極彩へ返した。彼女は平然としていた。 「紫暗、逃げなさい」  小刀をまた奪った。円い目が落ちるほどに開かれた。極彩は唇を噛む。 「何を…」 「早く…その血は、わたしの血だ。癲狂(てんきょう)を起こして逃げたといいなさい」  暗所では血痕の目立たない外套を指で差す。紫暗はびっくりした表情をして極彩に纏わりついたがその腕を振り払う。 「一緒に…」 「無理だ。分かるでしょ。紅を頼むよ。お願い。こればっかりは」 「でも、」  紫暗は首を振った。柔らかな頬を打つ。 「とっととあっちへ行け!卑しい下女め!」  声を荒げる。何もかもが夢のような心地だった。自ら腹に小刀を刺した。急所ではない。ふと森から出て行く朽葉の姿が脳裏に描かれ、涙が滲んだ。紫暗は悲鳴にもなっていない悲鳴を漏らす。痛みと熱に言葉が出なかった。早く失せろと小道の先を指で示す。胡桃の震えた声と、それから複数の足音が聞こえた。紫暗はもたつきながら立ち去っていく。闇に溶けていく小動物のような妹分の後ろ姿を見送った。腹から刃物を抜き、藪へと投げ捨てる。痛みか熱かも分からず、舗装道路へ横たわる。間違ってないはずだ。そう自身に言い聞かせて眠った。  縹が石を前にして泣いている。泣かないで、と思いはしても口に出来なかった。粗末な石の前で雑草のような花を添え、顔を覆って蹲り、痩せ細った縹自身がそのままそこで果ててしまいそうだった。彼を彼の後ろで突っ立っている朽葉が見下ろしている。泣かないで。けれど伝わらない。連れていかないで。人懐こそうな陽気な顔が縹から意識を逸らした。蜂蜜色の目に捉えられる。屈託のない、けれど控えめな笑みを向けられ、そして一瞬にして全て消えた。小さな口から犬歯を見せ、団子を咀嚼する無邪気な姿がふわりと浮かび、目が覚めた。 「怒りますよ、いい加減」 「誰…?」  親しいのか否か判断できなかった。赤い淵の眼鏡が特徴的な青年の名が出てきそうですぐに出てこなかった。 「殴っていいですか」  椅子に座っている青年は微笑んでいる。鈍い痛みが打ち上げ花火の如く打ち上がり、儚く消えていく。 「翡翠さん、だ」  ゆっくりと上体を起こそうとすると手伝われた。腹が鋭く痛む。 「一体何の真似ですか。正気なんですか」  天井に白い羽根の付いた扇風機に似た風車が設置され、音もなく回っていた。翡翠に片腕で抱かれるように支えられ、もう片方の腕は寝台の上体側を傾けていた。ゆっくりと背凭れになった寝台へ倒される。 「ありがとうございます」 「目を離すとすぐに何か仕出かすんですね、貴女という人は」  怒りそうな勢いを呑み込み、落ち着きを取り戻そうとしていた。 「…よく覚えてないんです」  嘘を吐く。翡翠は顔を顰めて極彩を凝らしていた。 「いいですか。貴女はそうやって難を逃れましたが、色街のあんな場所で女性が1人。『強姦されたって文句は言えない』と言い出す輩がいるんです。合意も同然だと…むしろ、望みの通り犯してやったとすらぬかす輩もいるほどです。それくらい、あそこは治安が悪いんです。分かっていますか。今まであそこを通り、何も無かったのことのほうが幸いなくらいなんです。殺傷事件だったから今のところ法の下の平等と権利に守られています…ただ…強姦事件だったら…っ、彼等にとって、些事なんですよ。事件としてだって扱われやしない。自身で守るしかないんです。でも守れないなら近寄るな。分かってください。もう自ら危険を冒すような真似はするな…!」  翡翠は声を引き攣らせる。 「どうして…」 「身体を売る女どもは対価などなくとも、そうされたくてやっているという認識の者が殆どです。最悪、娼館の店主までがそう思っていることだってあるんです。お忘れなきよう。もう二度とあそこへは近寄らないと誓っていただけますか」  極彩は翡翠をじっと眺めているだけで返事をしなかった。 「貴女は1人ではなかったんですよね。貴女は暴行されかけた娘を助けようとしただけで。『1人が救われるなら1人を見殺してもいい』という教えがあります。しかし、貴女が危険を冒して、どうするんですか」 「死ぬのは強姦魔1人で結構です」  拗ねたように口を開いた。 「何故、立ち向かうんです」 「…覚えていません」 「逃げられなかったんじゃないですか」  彼と目を合せたのが肯定だった。そしてすぐに逸らした。 「1人救われて、1人見殺す。いい言葉ですね、その救われた人間は5人くらい子を成さねば、いつか世が滅びそうなものです。生き残った者は、背負うんですね」  気に入らなそうな表情を向けられる。 「1人殺してしまったわたしは、もっと産むべきですか」 「くだらないことを。贖罪にもなりませんね。子は親を選べないくせに、盲信しますからね。そんなことのために子を成すなどと二度と言うな」  経緯を訊ねる気も起きず、診療所と思われる室内を見回した。 「2度も貴女を守れませんでした」  意地っ張りだと思っていた男が、落胆を無防備に晒している。本業のある男が監視役など務めていることに問題がある。思ってはみたが口にはしなかった。ただ肩を落とす姿を一瞥する。 「ワタクシは…貴女にとって…俺は貴女にとって、頼りない存在ですか。貴女を守れなかったことは事実です。そう思われても仕方のないことです。だから俺の言葉が届かないのは、分かります」  鈍くあちこちが痛む頭に眉を顰めながら、天井の緩やかな回転を眺めていた。 「こっちを向いて。俺を見てください」  両手で頬の両側を固定され、強制的に翡翠だけをその目に映さなければならなくなった。
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