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第125話

 大して疲れたつもりはなかったが今すぐ帰って休みたかった。腹は減っていなかったが近くの甘味処で茶と3色団子を注文し、屋外の席で暫く休んでいた。まだ流行病は治まらないらしく、あちらこちらから空咳が聞こえ、いくつか喘鳴まで轟いている。 「あっれ、白梅ちゃん?」  人混みに見知った姿を捉えたのは相手とほぼ同時だった。いとこだ。  「銀灰くん」  人懐こい笑みを浮かべやってくる。 「食べる?」  3本1色の団子の残り2本を差し出した。銀灰の目が輝く。 「いいんすか」 「ちょっと座りたかっただけだから。どうぞ2本とも食べて」  銀灰はありがとう!と叫んで隣に座る。 「今ね、胡桃ちゃん送ってきたところなんすよ。もうすぐ日が沈んじゃうもんすから…」 「優しいんだね」 「全然っすよ。あ、この前みたいに白梅ちゃんのことも送るっすよ?いとこなんすから…あ、いとこって響き、なんかいいな」  美味そうに銀灰は団子を喰らう。色茶屋を出てから燻っていた気分を、彼の明朗さを目にしてから自覚した。 「わたしは1人で帰れるから。人通りも多いし、銀灰くんだと遠回りでしょ」 「最近治安悪いらしいっすもんね。でも、だからこそ、遠慮なく言うっすよ。ずっと桜ちん借りてたし。ちょっと寂しいくらいっすよ~」  犬歯を晒し、暮れなずむ中でも彼の活き活きした表情は眩しい。 「城で色々あって、暫くは桜には一緒にいてもらうことにしたんだ」 「大変すね。ちゃんと休めてるといいんすけど。真面目すぎてこっちが心配になるくらいっすから。医者の不承(ふしょう)不承(ぶしょう)っていうの?でも白梅ちゃんと暮らしてるなら安心かも」  2本目の団子に手を付けながら銀灰は言った。極彩は桜に苦労をかけた張本人であるだけに苦々しく笑みを浮かべる。 「不養生にはさせたくないけれど」  2人が座る席の近くを、宗教的暗誦をしながら通る者がいた。銀灰は吊り気味の目を空に投げながら口を開く。 「今日、なんか変っすね。あっちこっちで“お唱え”が聞こえるんすけど。華族(きぞく)でも亡くなったんすかね」  銀灰は去っていた声の方を流し見る。今の時間帯は空咳と喘鳴、雑踏、呼び込みばかりだった。 「公開処刑があったらしくて。わたしは見てないんだけど。木蘭寺の広場で」  仔犬染みた少年の猫のような目が真丸くなる。愛らしく動いていた口が止まった。 「生臭いっすね、そりゃまた」  銀灰は驚く様子もなく軽い調子だった。極彩は俯きがちになりながら頷いた。誰が処されたのか結局分からないままだった。桜の同胞(きょうだい)だとしたら。 「大丈夫っすか。変なこと訊いちゃったっす。あんま気分いい話じゃないっすもんね、ごめんなさいっす」 「ううん。気にしないで」  竹串がさらに置かれる。ごちそうさまっした、と銀灰は合掌した。めっちゃ美味しかったっす、と加えられる。彼の溌剌とした態度に何となく励まされているような気になった。 「引き留めちゃってごめん。気を付けて帰って。柘榴さんと杏さんによろしく」 「あ…、ね、白梅ちゃん。これ…上げるっす」  銀灰は真っ白な簪を差し出した。月の意匠の飾りが端にふたつ重ねて付けられ、華美な垂れ飾りが揺れている。しゃらしゃらと繊細な音がした。 「どうしたの…?これ」 「うん、ちょっと訳あって買ったんすけど、急に要らなくなっちゃって。質に入れて杉染台の糧にしてもいいんすけど…ちょっとまだ吹っ切れられなかったからさ!合わなかったら、他の人にあげちゃってもいいし!男のオレっちが持ってても仕方ないから」  べたべたと触らぬように摘まみ上げ、銀灰の頭に合せてみる。何やってんすか、と笑われる。 「似合うけれどね」 「似合っててもさすがにまずいっすよ。お団子のお礼にはならないかも知れないっすけど、もらってくれるっすか?」 「うん。ありがとう。大切にする」  茶と空いた皿を持ち、銀灰とはそこで別れた。そろそろ妓女たちとの戯れは終わっただろうか。狐を迎えに行くか否かで思案しながら再び茶屋へと戻った。店主は照れたように笑い、色街の方角に向かったことを極彩に告げた。あくまで色街の“方角”だと強調され、雑に頷いておいた。気が進まないまま色街に向かいかけ、途中で何故あの婿候補を迎えに行く必要があるのかと思い至り、色街の半ばほどに突き当たる路地を引き返す。しかし後方で小さな悲鳴が聞こえた。尋常ではない事態に思われた。ただ野良猫に驚いただとか、躓いただとかいうものとは一線を画している。厄介事だろうから放っておけ。それが直感だった。しかし爪先がすでに方向を示していた。頭の悪い自身を恨みながら地を蹴った。色街の裏路地へ入っていく。嫌がり拒絶する女の声の残響を追った。娼館の裏側が並ぶさらに裏の道は足場が悪く廃材だらけで異臭がした。霓虹灯(ネオン)も届かない外灯だけの薄明かりの下に人影が見え、その先にある藪の中が蠢いた。全速力で風を切る。 「やめて!いやぁ!」  藪の中に飛び込み、地に背を丸めている男を回し蹴った。大柄な身体はびくともしなかった。下に敷かれた娘を確認するよりも早く、裏拳打ちが横頬に入った。火花が散るような衝撃があった。瞬間的に骨が軋む。鼻血が吹き出す。倒れそうになる身体を踏み張った。 「いや…っ!」  悲鳴の主は腰を抜かしているらしかった。のっそりと暴漢らしき巨体は極彩を振り返る。 「逃げて!」  極彩は叫んだ。それが合図にもなっていた。巨躯が極彩へ襲いかかる。岩のような拳が頭部を打った。視界が明滅する。胸元を掴まれ、足元が地面から離れた。放り投げるように軽々と、藪の外にある舗装された小道に投げ捨てられた。 「白梅さん!」  駆け寄ってきた女は胡桃だった。3本の手が極彩を助け起こそうとする。知り合いの登場に気を取られて、忍び寄る巨影に遅れた。胡桃を押し倒し、凶暴な殴打を側頭部受け入れた。目の前が大きく揺らいだ。水中に沈んでいるような曇った耳鳴りが聴覚に張り付いた。 「白梅さん!」 「逃げて…っ、わたしのことはいいから!」 「助けを…っ」  胡桃の痩せた身体が薙ぎ払われる。極彩は地面に手を付け、肘の伸縮の力で男の顎を蹴り上げた。辛くも首に足首を巻き付け、男の頭を抱き込んだ。昏い悦びに悪寒が走った。銀灰から渡された簪を抜き取る。 殺せ!殺せ、殺せ、殺せ! 一瞬浮かんだ闊達な姿に判断を鈍らせた。男の分厚く粗雑な手が極彩を掴み、舗装道路へ叩き落とした。しゃらん、と美しい音を立て、簪が落ちた。這いながら、それに手を伸ばそうとした。だが肩を握られ、仰向けにされる。岩石と見紛う巨体が馬乗りになり、動きを封じられた。男の手が衣類を剥ぐ。破られ、肌着が現れる。腕が地面を探る。細い棒状の物が指に当たった。耳鳴りが集中力を削ぐくせ、緊張感が無理矢理に集中力を高めさせ、()も言われぬ感覚に陥った。薄気味悪く吊り上った口と、その中で照りながら糸を引く唾液だけが目に入る。両断された割り箸が極彩の首筋に齧り付かんばかりの暴漢の眼球を突いた。卵を割ったような、けれど生活感のない不快な響きがあった。耳鳴りの奥で絶叫が聞こえる。頬を打たれ、熱が破裂した。
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