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第124話

「そういう言葉は要らないです。欲しいのは籍だけですから。でも、望まれるなら…」  続きが言えなかった。黙り込んでいると腕を引かれた。 「子供は何人がいい…?ぼくは…2人。女の子と男の子…お嫁さんに似るといいな…ぼく、一生懸命働くね…」  けほけほと空咳をして狐はまだ雑然としている街へ出た。極彩は腕を引かれながら処刑場を振り返る。思い込みか、現実かも分からない鉄錆びの匂いが金木犀の香りの中に混じっていた。水が叩き付けられている音が生々しかった。一体何を洗い流しているのだろう。すでに終わっているだろう催し物に、人の群れは空の赤とんぼよりも粘っこくそこにあった。 「血を見ると…興奮する…?」  訊ねているのか自己を語っているのか分からず何も答えずにいた。血生臭い出来事とは無縁そうな雰囲気を醸しているが彼もまた血生臭い事件を起こしている。 「どこ行くんですか」 「…色街、だよ…?」 「色街はやめましょう。あんなことがあったばかりですよ」  狐は足を止め、近くの電信柱へと極彩を押し付けた。そして身動きの取れないほど眼前へと詰め寄る。薄い胸板が胸元にぶつかった。長い睫毛が上下する。 「あんなことが…あったから…お嫁さんの…生を感じたい…」 「狐さん…?」 「昨日の今日でこんな早く…」  昨日の今日?と訊ねようとしたが、狐は極彩に問いを許さず、額を撫で上げた。前髪がさらさらと落ちていく。 「お嫁さんは…月みたい…この傷も…」  親指が傷痕に触れた。 「褒めていただけて幸いです」 「行こう…?」  手を差し伸べられ、尻込むと柔らかく手を繋がされた。握り返せはしなかった。不言通りを南下する。その間も狐は幾度か空咳をしていた。 「色街は嫌」  区画に入る前に踏み留まる。狐は嫌ではないのか。感情的な調子で訴えると狐は悲し毛に眉を八の字に下げる。 「じゃあ…茶屋で…いい…?」  含みのある言い方だった。ただの茶屋ではないのだろう。しかし婿候補からは言葉ほど欲や希求を感じ取れなかった。 「色街とは…少しだけ…離れてるけど…でも…そういうコト、できるお店…」  握る力がわずかに強まっていた。拒絶されることを待ち侘びているのではないかという疑念が強くなる。逃がさない。逃がせない。この若者ほど都合のいい者はいない。さらには闇競りに関わってしまったという弱味を握られていて、奴隷商殺しであるという弱味を握っている。 「行きましょう。色事には疎いので、満足していただけるか分かりませんが、善処します」 「大丈夫…お嫁さんなら…ぼくも、頑張るね…」  何を頑張るんですか、とどこかの宗教家のように問いたくなったが呑み込んだ。冷たい手が左右で極彩の片手を弄ぶ。溜息も呑み込んだ。目の前で長い空咳が聞こえ、睨むと濃い睫毛が弧を描く。体温が上がっちゃったんだ、と言われ、呑み込んだはずの溜息が漏れた。  不言通りの繁華街から外れた小通りで茶屋に入った。それでもまだ混雑時の長春小通りよりも人気(ひとけ)があった。狐はふらふらと受付に向かい、親しそうに話している。一見(いちげん)ではないらしい。近くにいた従業員が席を勧め、少し間そこで待っていた。天井から聞こえてくる軋みや声が静まり返った茶屋の入口にさらに緊張感を持たせる。まるで他人事のように場の空気に浸っていると狐が戻ってきた。 「…怖く、ないから…ね」 「別に怖がっているわけじゃないです」  狐の長い睫毛が弧を描く。2階の奥の襖まで手を引かれた。大きな布団が真中に敷かれ、少し赤みの強い薄紅色の壁と円窓が特徴的な部屋だった。床の間には淫猥な掛軸と、妙に丸みを帯びた瓢箪に似ている風変りな形状の花瓶があり、白く小さな花が挿してあった。狐が先に敷居を跨ぎ、焦った様子もなく極彩に手を差し伸べ入室を促す。 「婚約者なんだから…何も、恥ずかしくないよ…?」  躊躇っている極彩に優しい声音で彼は言う。白く冷えた手には応えず敷居を跨ぐ。 「上着…預かるよ。楽にして…緊張しないで」  背後に回られ、極彩は上着を脱がされた。両肩を上から押されたため、そのまま布団の上に座った。 「脱がされるのと…自分で脱ぐのと…脱がせるのと…脱がないの…どれが、いい…?」  極彩の上着を丁寧に壁に掛けると狐は対面に正座した。優雅な仕草にびっくりして目が泳いでしまう。どこからどこまでが本気なのだろう。ここで拒否を待っているのだろうか。 「自分で、脱ぎます」  手が痙攣していた。もたつきながら衣類を脱ぐ。肩の包帯に、睡眠欲ばかりが灯っている目が見開かれる。肌着と包帯と素肌を焼くように観賞されている。 「怪我…してるの…?」 「貴男の腹の傷と比べたら、大したものではないです」  狐は座ったまま後退る。 「狐さん?」 身体に傷のある女とは無理だという意思表示か。威嚇しながら名を呼ぶ。 「ごめんなさい…よく覚えてなくて…腹の傷…そうなんだ…」 「覚えていませんか。でもそれなら、わたしから教えることはありません」  気分の悪くなる闇競りであったし、辺り一面が血の海であった。惨劇だった。忘れたい記憶として消し去られてしまっているのかも知れない。 「知り…たいです…身に覚えのない傷は…嫌だ…」  教えていいものか極彩は迷った。ひとつの防衛として記憶の彼方に捨てられたのなら、また拾い上げてしまうのは酷だ。 「もう少し、経ったら教えます。いずれ。もう少し、期間を経たら…夫婦の生活は、長いですから」  狐は眉を寄せ、極彩に抱き付いた。布団に押し倒される。肌着の上から胸元に耳を当て、彼は動かなくなった。乾いた咳をして、それからまた黙る。 「その咳はいつからです。休んだほういいのでは」  もう眠ってしまっているのかも知れない。地下牢に閉じ込められている少年になってしまった男にしている癖で髪に手を伸ばしてしまった。 「最近だし…すぐ治る…」  頭を撫でてしまい、我に返って手を引っ込めようとすると、「やめないで」と小さく訴えられ、そのまま明るい茶髪を梳いた。 「一緒に寝たら…治る」 「寝るというのは、睡眠のことでいいんですか」  胸元がもぞりと動く。首肯したらしかった。また空咳を繰り返し、少し長かったために呼吸は苦しそうだった。眠げな目蓋が重く開閉している。頬や額に触れてみるが彼の身体は手と同じくどこも冷たい。 「自力で動けるうちに医者に行きましょうよ」  胸元が再びもぞもぞと動いた。頭を振る狐に極彩は強く出る。肌着から外れた素肌に傷んだ猫っ毛がぶつかり、くすぐったかった。 「貴男はわたしの婿ですよ。何かあると困るんですが」  顔の半分を覆う布に手を触れようとした時に襖が開いた。煌びやかな衣装に身を包んだ女たちが入り込んでくる。噎せ返るような香油が空間を一気に満たす。様々な香りが混ざり合い、鼻腔を突き抜け頭がくらくらした。極彩は起き上がろうとしない狐の体重ごと身を起こさねばならなかった。遊女と思しき女たちは狐を極彩から剥がすと親しげに抱擁や接吻を交わした。赤く塗られた爪が彼の粗末な衣を脱がし、真っ赤に潤う唇が頬や首に痕を残す。痩せた身体が露わになった。遊女たちの愛撫に応えながらも腕だけは極彩に伸びていた。極彩は顔を顰めて固まった。伸ばされた白い手にはしなやかな細い手が変わりに絡み、遊女たちは極彩から狐を隠した。華やかな悦びの声や息遣い。豪奢な髪飾りを挿した艶やかな髪が揺れ、乱れる。女たちの狭間からわずかな欲を湛えた瞳が見えた。挑戦的で極彩を見下ろしている。そのまま布団に倒され、女たちと戯れ合う。疑念が確信へと変わる。 「好きに遊べばいいです。でも貴男はわたしの婿ですからね。それは変わりませんよ」  邪魔をしないように静かに、だが念を押すように言い、壁に掛けられた上着を引っ手繰ると店を出た。
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