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第123話

 肩の鈍い痛みに意識が引き上げられ、そのまま目が覚めた。薬を忘れてしまったことが悔やまれた。咽ぶ声が小さく聞こえる。居間と廊下を隔てる扉の方からだ。物音を立てないように起き上がり、把手(はしゅ)に触れかける。 ――姉さん  震えた小さな呟きに硬直した。布団に戻るしかなかった。肩の傷は疼き、肘は絆創膏の微かな重みがある。翡翠の匂いに包まれながら目を瞑る。嗚咽はまだ続いていた。隠し事はしないでほしいと言ったくせ、その本人は思わせぶりなことばかりを言い、大切なことを言いはしない。肩を摩りながら眠ろうと努める。人の気配に気付いていしまうとなかなか上手くいかなかった。夜目(よめ)が利いた中で貰ったばかりの古い鈴を鈍く鳴らしてみた。誤って、高く鳴ってしまう。拙いな、と思った。結局何度か寝返りをうってから、いつの間にか眠っていた。  目が覚めると昼の少し前だった。居間の卓袱台に握り飯と紙片、そして乾いた着替えと僅かに水に浸してしまった形跡のある婚姻届が置いてあった。紙片は書置きで、城で儀式祭礼があるため出掛けるという旨が手本帳のように綺麗な字で綴られていた。それから『外出は控えろ』とそのまま同じ丁寧さで記されているのが滑稽だった。布団を畳み、簡単に掃除をしてから握り飯を食い、食器も片付け、身支度を済ませて外へと出た。空は晴れやかで、秋の香りがした。紅葉が広がっているのが見え、追放されていることもその他の煩雑な状態であることも忘れ、気分が良かった。淡香寺の境内の端にある、街を展望できる長椅子に腰を下ろした。野良猫が早歩きでやってきて膝に乗る。性格の悪そうな面構えをしていたが高い声を漏らしながら喉を鳴らし、撫でる箇所を指定してくるのだった。街では何か催事があるらしく、賑わいを見せていた。秋の祭祀かも知れない。外出は控えるつもりで少し外で猫と遊び、日を浴び、風に当たったら戻るつもりでいた。膝にいた猫は飽きたらしく極彩のもとを去っていく。紅葉と青空を望みながら日の温かさに目を眇める。また足元に別の野良猫がやってきた。軽く座面に飛び乗り、膝に乗った。触れずとも勝手に喉を鳴らしていた。太った猫で耳が切れていた。話声に振り返ると参拝者がいたことに気付く。帰り際に共に来ていた者へ熱心に懺悔めいたことを口にしていたのが聞こえた。それから境内にある甘味の屋台が開き始める。水の造形物は撤去されていた。街を見下ろす風景に直ると、木の柵近くに純朴な若い官吏の面影をみた。遠い地で無事でやっているだろうか。心身ともに休めているだろうか。溜息を吐く。すでに紅葉が広がっている様は圧巻だった。打ち上げ花火はおそらく2人で観られたというのに。ただの社交辞令だ。本気にしてはいない。知り合いとの懐かしくなった思い出だ。下方から子供の泣き声が聞こえ、回顧は途切れる。近付いてきている。参拝者らしかった。不本意ながら敵地にいるような後ろめたさが突然降りかかった。実感はない。(せん)教徒ですらなかったが紫雷(しでん)教よりも親しみを感じていたのは監視役の影響だろう。  首がぽろんってなったぁ。  階段から現れた女児が喚き散らす。祖母と思しき媼が血相を変えて周囲を見渡した。やだぁ、やだぁ。父親と思しき男性の脚に縋りつき、抱き上げられてから参拝所に向かって行った。物騒な響きが極彩の中に留まっている。極彩は彼等3人連れを凝視してしまい、参拝を終えても尚、目で追っていた。風月王に感謝を忘れなければ大丈夫だよ。父親と思しき男性は女児の背丈に合せて膝を折る。二公子も次世代を担う素晴らしきお方だからね。そう言って泣き止みかけている子供の頭を撫でる。媼が視線に気付いたらしく男性の服を引いた。慌てた様子で、しかし颯爽と淡香寺を立ち去っていく。ふらふらと足が動いた。猫が落ち、帰っていく。急な階段を下り、赤とんぼの群れを潜り、曼珠沙華の咲く花壇の脇を抜けた。金木犀の甘い香りに誘われながら弁柄地区を抜ける。場所はすぐに分かってしまった。人波に反して行けばよかったのだ。  到着した場所は木蘭(もくらん)寺の近くにある広場で、背の高い柵によって人々がごった返していた。近くにいた深刻そうな顔をしている中年に問う。ここで何があったのか。心臓が早鐘を打つ。公開処刑だよ。苦虫を噛み潰した表情で答え、極彩から離れていった。両手を広げて回転すれば、誰かしらにはぶつかるという密度で、手当たり次第に誰が処刑されたのかを訊ねた。知りたくはない。だが知らねばならない。答えをもらうより先に背中を引っ張られる。 「ここ…あまり、騒ぐの…よくない…みんな、混乱してる…」  呑気な喋り方が背後から聞こえた。極彩は確認しようとするが阻むように引き摺る力が強められ、後退することに精一杯だった。以前一度だけ訪れたことのある木蘭寺の美しい竹を観賞している余裕もなく通っていく。竹製の四阿に放られ、そのまま竹椅子に腰掛けた。人影が迫る。口元と鼻先を布で覆い、眠そうな目元には紅色の化粧が施された明るい茶髪の若者だ。能天気な髪色に苛々させられる。 「狐さん…?」 「声…聞こえたから…ぼくの、…妻の」  彼はけふけふと乾いた咳をした。 「あれだけの邂逅(かいこう)でよく覚えられましたね」  嫌味っぽく言うと、今にも寝てしまいそうな目を細め、おそらく笑っているらしかった。 「…ぼくのお嫁さんの声…落ち着くから…すぐ、覚える…」 「何してたんです、あんなところで」 「…ぼくは…何してたっけ…?ぼくのお嫁さんは…何、してた…?」  怪しい咳をしながら婿候補は答えになっていない答え方をしてさらには訊き返す。極彩は髪を掻いた。肩の傷が痛む。 「ちょっと訳があって。それより、風邪ひいてるんですか」 「大丈夫だよ…移さない。ぼくのお嫁さんは…ひいてない?」  酔っ払いの絡み酒のようにも思えるのんびりした話し方に苛立ちを抑える。 「わたしはひいてません。熱はありませんか。息苦しさは?」  狐はぽけっとした顔をしている。侮られている感じすらした。 「ない…」 「ではもういいですね。婚姻届が書け次第、また伺いますから。昨日居た場所なら、大体いますか」  意識の無さそうな視線に絡まれたままだった。うん、と寝落ちたように首を縦に振る。 「本当に…ぼくみたいなので…いいんですか…」  その質問は極彩をさらに不機嫌にさせた。 「それは遠回しに拒否しているというわけではありませんよね」  婿候補は話を聞いているのか否か分からない、放心したような表情から意識が戻る。 「してないよ…ねぇ、じゃあさ…夫婦の営み、しよ」  空はまだ明るかった。聞き間違いかと想い、似た発音や同音異語を探す。しかし思い当たるものは「夫婦の営み」以外、他になかった。 「すみません。もう一度おっしゃっていただけますか」  狐は首を傾げた。小さく顔面に動きを見せ、また「夫婦の営み」と口にした。まだ正式な夫婦ではない。しかしここで関係を先に築き上げてしまったほうが、書面を提出する前になって気が変わったと言われる可能性を考えた際に賢明に思われた。しかしすぐに返事が出来ないでいた。 「行こう…?ぼくの自慢の…綺麗なお嫁さん…」  咳をしながら狐は言った。冷たく乾燥した手が極彩の手を掴む。薬を飲んでいない傷口が痛んだ。 「大好き…」
良い
エロい
萌えた
泣ける
ハラハラ
アツい

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