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第122話

「どうせ失礼なことでも考えていたんでしょう。ご安心ください。これでも一時期は料亭に潜伏していた頃がありましたからね。ある程度の料理は大体出来ます」  翡翠は野菜を選び終えると奥へと入っていく。 「城の食事はどうです」  肉や魚の賞味期限や品質を見定めながら翡翠は問うた。 「美味しいです」  翡翠は極彩を振り返ってから首を倒し、黙った。溜息を吐いて商品棚に直る。 「顔色があまりよくないです。肉料理で構いませんか」 「顔色、悪いですか」  自身の冷えた顔に触れた。 「貧血では」  そう言って買い物籠に生肉が入れられる。不言通りにあった祭囃子が店の前に訪れ、騒がしくなった。店内までもざわついている。風月王は要らない、二公子は暗愚だ、不敬罪がある限り後進的である、などという非難と誹謗の数々を声高に叫び、さらに彼等へ向け罵声が飛んだりした。他の客たちは外を気にしたり、動揺したりしていたが翡翠はすいすいと奥へ進んでいったしまったらしく肉や魚の売り場から姿を消していた。大きな迷子を捜しているみたいだった。彼は菓子売り場いた。少し離れて見ると均整の取れた体躯と穏和な横顔に胸が一瞬大きく脈打つ感じがあった。 「塩味でいいですね」 「え、はい」  何の話かも分からないでいたが、彼は塩味の煎餅を籠に入れた。まだ他に欲しい物があるかと問われ、首を振る。すると会計へと向かっていった。袋に買った物を詰め、翡翠の両手が塞がった。片方持つ、と言ったが、歩くのが遅くなりそうなのでいいです、と彼らしい嫌味と共に断られる。店を出ても長春通りはまだ騒々しかった。喧騒にそわそわしてしまう。来た道を戻らず、抗議活動とは反対の方向に進んでいた。そのことに気付くと翡翠を見上げてしまう。 「氷菓子(アイス)でも食べますか」 「いいえ、要らないです」  大小ふたつの影が並ぶ。喧騒に沸いた背後の遠くとは真逆の長閑な感覚に支配される。 「唇、荒れてます」  翡翠は買い物袋からいつの間にか買ったらしい筒状になった口唇保湿剤を出し、極彩へと渡す。 「…ありがとうございます」 「あまり舐めないことですよ」  両手に買い物袋を下げる影とその隣の買ってもらった保湿剤を抱く影に意識が惹かれた。不思議な気分だった。街を歩くと目で追ってしまっていた親子の伸びゆく影。それが今、自身の足元にある。胸元が妙に温かく、けれど肌で感じられるものとは異なっていた。浮遊するような軽やかな心地だった。緩やかな空腹が愉快でさえあった。 「疲れましたか」  優しい声で問われ、首を振る。 「ずっとこうして、穏やかな日々が続くといいんですが」  幻聴や空耳かと疑ってしまうほど柔和な雰囲気を纏っていた。外見の印象通りの人好きする爽やかな青年がそこにいる。返事をしたら嫌味な彼に戻ってしまいそうだった。極彩は固まったまま頭を縦に振った。 「貴女の悲願が叶う日が来るといいですね」  平素の陰湿さが滲んだ笑みは、今はただ温厚そのままな微笑へ変わっている。極彩は動作の選択肢をやっと与えられたように小刻みに首肯を繰り返す。カラスが鳴いた。乾いた風が唇を痛めつけ、赤とんぼが空を駆けていく。 「冷え込みますし、早く帰りましょう」  摺鉦が高く響いていた。  夕飯は豚の肝臓と韮ともやしの味噌炒め、蒸(ふ)かした馬鈴薯と人参、魚肉の練り物の和え物、そして胡麻の浮かぶ溶き卵とワカメの吸い物に豆腐が付いた。どれも美味しかった。自身の食欲に驚くほどだった。「料理は久々でしたが、作り甲斐がありましたよ」と言っていた。食器洗いを申し出るも入浴を勧められた。2度目の狭い風呂も落ち着いた。城の浴場は極彩は個人で使えたがひたすらに広く、却って落ち着かないくらいだった。風呂から出ると入れ違いに翡翠が風呂場へ向かった。すでに布団が1枚敷かれていた。客人が来るような庵でもなかった。自身が床で寝るか、翡翠が寝ないか、折衷案として2人で畳の上で寝るのだろうと思い、座布団に腰を下ろす。一度着た衣類を脱ぎ、ゆったりした中で包帯を巻き直す。これも着替えと共に新しい物が置かれていた。袖と裾を折り、髪を拭きながら身体を伸ばす。簡単な柔軟体操をしている間に行水のように素早く入浴を済ませた家主が下半身にタオルを巻いただけの姿で居間へと現れる。顔と首半分を覆う火傷だけでなく上半身には様々な傷が走り、凹んでいたり染みになってしたりした。しかしどれも昔のもののようだった。ぎょっとして半裸姿を観察してしまった。翡翠もまた目を瞠り、台所のほうに身を隠してしまう。 「驚かせてしまってすみませんね」  しかし着替えは居間を通り抜けた、廊下の先にある一室にあるらしく、一言そう残すと何事もなかったふうに居間を出ていった。庵の主のそれは早着替えだった。ゆったりとした装いの翡翠が現れ、気拙そうな顔で極彩を見下ろす。 「嫁入り前の娘と同室で寝るわけにはいきませんからね。俺は自室で寝ますよ。1人で怖くありませんね?……肘、怪我してるんですか」  袖が捲られた肘に視線が落ちた。翡翠は身を屈め彼女の腕を引いた。 「虫刺されみたいです」  誤魔化すと険しく射抜かれる。 「虫刺され?それならいいんですよ、それなら……随分と大きな虫がいたものですね。この季節に?新種の虫なら貴女の名が付きますよ。いっそ申請してみたらどうですか」 「…そうですね。考えておきます」  誤魔化しにさらに誤魔化しを重ねる。微笑を浮かべられ、だが2秒もせず消えた。 「出来るだけワタクシには隠し事をしないでいただきたいんですが、まぁ、それは個人の問題ですからね。強要はしませんよ。貴女の弁護人というわけでもありませんし」  家主は立ち上がり、救急箱を持ってきた。肘に絆創膏を2枚並べて貼られる。2点の傷口の距離が1枚では足らなかった。 「大したことじゃないんです…」  彼は眉を上げるだけだった。説明を待っているらしい。 「でも、縹さんには言わないでください…」 「叔父御?」 「雇い主が大激怒(かんかん)だというから…」  翡翠はいやらしく笑ってから、そうですね、と言った。 「紫雷(しでん)教に入るために、さっきの…桃花褐(つきそめ)さんに…血を吸われて…でも本来は、人肉を喰らわなければならなかったらしくて、わたしがそれを躊躇ったから…」 「血を吸う?」  笑みは消え、深く眉間に皺が寄っていた。 「怖い人ではないんです。色街にわたしが居るのは、危ないって…闇競りのことで。あそこの区画に喧嘩売ったも同然だったみたいで。それで用心棒を買って出てくれたんです」 「彼自身の事は、別にどうでもいいんですけどね」  絆創膏の上から肘を撫でられる。親指の腹がゆっくりと肌をその周辺を彷徨う。 「…すみません」 「いいえ、別に。彼と関わるとは言いません。よく話してくれました、感謝します。ただ…気を付けることですね」  桃花褐のことを話しているうちに俯きがちになっていた極彩の頬に掌を添え、上を向かされる。 「様々な人がいますからね。本当に様々な人が。環境が違ったばかりに理解できない人もいる。ですが、もし貴女が耐えられないと思うなら罪悪感など無視することです。自分の身が一番ですからね。罪悪感に従って、己が疲弊したものは気付けば全ての権利を失っているんですから。偏見の中に真理があるとは思いませんが、時には、必要なのです」  翡翠は珍しく興奮気味に喋った。極彩は眉根を寄せる。 「……どういうことですか」 「まだ知らなくてもいいことです。たったこれだけ言っておけばいい。今は、まだ」  追及は許されなかった。翡翠は立ち上がり、おやすみなさい、と言った。
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