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第121話

「今日はもう休みなんですか」  外に爪を投げ捨て、敷いていた瓦版を塵箱に捻じ込んだ翡翠に問う。 「貴女がすぐそこにいますからね?」 「…長く待ちましたか」  翡翠は台所に向かってしまった。手を洗い、茶の用意を始めている。 「別に待ってはいません。雇い主はもう大激怒(かんかん)ですからね。そのうち解雇ですよ」 「すみません…」 「おや?何故貴女が謝るんです。すべて俺の独断ですからね…ああ、それはこちらの話として」  台所の物音を聞きながら開け放たれている障子から外の風景を眺めていた。緑が生い茂っている。 「ああ、そうだ。狐さんに会いました」  返事はなかった。茶請皿だけを持ってきて、ばつの悪そうな顔をして卓袱台に置く。また台所に戻り、湯呑ふたつと急須の乗った盆を運んできた。 「婚姻届をあとは書くだけで…あっ」  口にし、自らの声で聞いてから脱いだ物に紛れていることを思い出す。嫌な汗が一瞬で吹き出る。溜息が目の前から聞こえた。 「干してますよ。まったく…で、会ったというのは?」 「色街の外れで……本当にありがとうございます。ぼんやりした人ではありましたが、元気なようで」  翡翠は黙り込んで茶を淹れていた。短く揃えられた爪が節くれだった傷痕だらけの指に照っている。 「…よかったじゃないですか?叔父御も喜びますよ。書面だけだと流石にまだ不安でしょうし…ねぇ?」 「それから、その、紫雷(しでん)教にも…入ることができました」  鋭い目が極彩を捉えた。怒られたり、追い出されたりするかも知れないと瞬時に思った。威圧的な空気に身構えてしまう。 「よかったじゃないですか。万事順調で。城はもう、なかなか緊張感が漂って肩が凝りますよ」  翡翠は茶請けから醤油煎餅を取ると、ふたつに割って口に入れた。少し機嫌が悪いようだった。 「二公子は、どうしているんです」 「閉じ籠ってしまいましたよ。彼を諌められた付き人も(ひま)をもらいましたからね」 「…やはり、藤黄殿は…」  極彩は湯呑を握り、白い水面を見つめる。 「あの少年の祖父でしたね。…彼も、自分を捨てても一度は受け入れた家族がやはり大事だったのでしょう。たとえ血の繋がった祖父を切り捨てることになろうとも、ですよ。まったく親というのは勝手でいけない。あれは生まれて初めて触れる宗教ですよ」  翡翠はばりばりと醤油煎餅を齧った。乾燥した唇を湯気が蒸していく。 「貴女の気にすることではありませんよ。貴女がそれで苦労することもなかったんです。もらい事故みたいなものだったんですから」 「墓園でのことに、後悔はないんです。ただ、このまま刑を待つというのは割り切れなくて…」  茶を啜る音がする。 「憎かっただろうなって思うんです。朝から元気に挨拶して、あれこれと世話を押し付けられて、殺意なんてちっとも見せずに。まだ感情の制御だって難しい年頃だろうに、たったひとりで」  茶を飲む。舌先が熱い。 「このまま二公子に、はいはいと従って刑が終わることも知らずに過ごすことも多分出来ます」  煎餅のぼりぼりという音が心地良かった。 「ただ、現在(いま)、どうしても落ち着かなくて。何か出来ることを探すんです。そうしたらまだ、出来ることがあるから」 「不安を打ち消せますか。それで?」  遠くで爆竹が鳴る。驚いて身体が跳ねた。翡翠は、困りましたね、と呟く。 「無力が怖いんです」 「一番恐ろしいのは、やる気のある無能と悪意のない偽善者です」  厳しい言葉だった。極彩はさらに項垂れた。吐息に茶が揺れる。半分に割れた煎餅がまた小さく割られた。 「刑が処された時、その不安は消えるでしょうね。また別の形となって。けれど期待が砕かれただけ楽ですよ」  極彩はこくりと首を縦に振る。食べますか、と茶請けを差し出されたが首を横に振った。 「もし刑が処されたら、きっと自分の無力さに気付いてしまいます。それでも尚?その覚悟がありますか、貴女に?」 「…ありません」  煎餅の音が止む。時が止まったみたいだった。 「それでも抗うんですか」 「はい。もう進むしかないんです。もう足掻くしかない。水に落ちたらそうするみたいに」 「なるほど?まぁ、あの二公子の様子だと段々と過激になってくるかも知れませんね。囲う気だ?貴女を。痛め付けて、無力感で押し潰して、貴女の所為だと思わせて……くれぐれも注意することですよ、自責の念に駆られたら浸け込まれる。抗い続けてください。あの男に惚れられたら、もう足掻き続けるしかないんです」  翡翠は微笑を忘れてはいなかったが何か真逆な色を帯びていた。それから低い笑い声を上げた。遠くどこかを見つめていた。 「翡翠さん?」 「失礼。ワタクシの知り合いも、彼に言い寄られたクチでしてね。貴女の叔父御の幼馴染ですね。年は離れていましたが。素敵な方でしたよ」  尖った視線を向けられ身が竦む。ふと祭りの後のことが思い出された。縹がわずかに語った浴衣の持ち主。そして二公子が口にして朽葉によく似た無邪気な顔を見せた瞬間。 「藍銅(らんどう)様のこと…でしょうか」 「よく、知っていますね?一体何方(どなた)から聞いたんです?」  翡翠はすでに冷ますほどではなくなっているはずの湯を冷ますかのように息を吐いた。 「詳しくは知りません。名前だけ、二公子から。あの祭りの後に」 「…そうですか。二公子が?なるほど。でも、貴女は忘れていいことですよ。若い女を見るとすぐ別の女の名を言うんですね。厄介な方だ」  明らかに翡翠は苛立ちを見せていた。神経質そうな眉間に深く皺が寄る。 「あの…ごめんなさい。あまり好ましい話題ではなかったみたいで」 「いいえ。貴女が気にすることではありません。俺も態度を改めます。さて、それで。どうします、今晩の夕食は。買い出しにでも行きますか。貴女を養う費用はがっちり雇い主から預かっていますからね。使わなきゃ恵まれない人々に寄付ですよ。間違ったら乞食追放政策に使われかねませんね」  翡翠はばちんと両手を打ち鳴らし、立ち上がる。極彩は茶を飲み干した。焦って咽る。ああ、あとそれから。翡翠は居間から出ようとしたがまた戻ってきた。 「すみませんでしたね。貴女の傍にいられず。今更言っても仕方のないことですが」  極彩は慌てて首を振ったが一時的な保護者はもう居間を出ていた。  履物は少し湿っていた。家主はそのことを気にする素振(そぶ)りを見せたが極彩のまったく頓着のない様子に何か言うことはなかった。不言通りが騒がしかったため長春小通りで買い物をすることにした。時間帯のせいか極彩が目にしていた時よりも混雑している。祭囃子で耳にする摺鉦(すりがね)の高い音が最も目立ち、そこに拡声器越しの文句と濁った怒声が連なりひどく耳障りなものと化している。 「革新派団体の抗議活動ですよ。やるだけ無駄だということも気付かずに…」  市場の前に突っ立っていると翡翠がそう説明した。変質者から子を守る親のように肩を抱いて入店を促す。 「何が食べたいですか」  翡翠は野菜の並ぶ商品棚を眺めていた。その陰険さの消え失せた市井によくいる若者そのままの横蛾ををじっと見つめてしまった。ただ火傷の痕が不相応だった。 「話、聞いてます?」 「あ、いえ…はい。特に要望はないです」  買い物籠を手にする生活感のある姿に見惚れ、返事が遅れた。
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