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第120話

「血が欲しい。嬢ちゃんの、血が」 「いくらでも」  予想とは違った要求に大きく息を吐く。投げやりに答えた。されるがまま腕を取られ、濡れた袖を捲られる。肉感のある掌にがっちりと掴まれた。痣が出来そうなほどで、抵抗する気はなかったが、逃がす気はないらしい。腕の内側が温かく湿った。ざらついた質感だった。舌が手首から上へ這っていく。息がくすぐったかった。 「痛くなるぞ」 「え…っつ、」  意味を理解するよりはやく肘の柔肌に歯が立てられた。びくりと腕全体が一度大きく震えた。鋭い牙があるらしい。皮膚が破れ、奥から引き攣り、捩じられるような痛みがあった。反射で腕を引こうとするが熱い手がそれを許さなかった。視界が利きづらく相手の表情は何ひとつ見えない。剛胆でよく笑いよく喋る男。黙りながら暗く狭い場所で出入り口を塞がれただけで途端に恐ろしい怪物のように思えた。 「桃花褐さん…ッ」  じゅるじゅる、ごぷごぷと生々しく液体を吸い、嚥下する音が響く。自由を奪われた手が震えた。痛みを堪え、呻きそうになるともう片方の指を噛む。痛みや感触、音に慣れてくると納屋の天井を見上げ、本当に淡香寺に帰っていいものか、紅は寒くないだろうか、縹の体調は悪化していないだろうか、桜はいじめられていないだろうかと考えていた。 「痛…」  一度大きな痛みの波が寄せた。それから濡れた感触が離れる。生温かく湿った肘が冷たくなった。最後にその箇所をすばやく舌が舐め摩っていった。 「美味かった。脅して悪かったな」  極彩の腕は力なく垂れた。桃花褐を睨む。 「嬢ちゃんを紫雷(しでん)教に迎える」 「…ありがとう」  噛まれた脈を撫でる。 「これで、いいの…」  虚勢を張っているみたいだった。桃花褐は納屋を出た。その背中を射殺さんと凝視していた。暗い納屋で肌を舐められる。屈辱だった。気を許していたのだと自覚した。比例して裏切られた心地があった。 「ごめんな」  桃花褐は振り返った。そして納屋から出てこない極彩の腕をもう一度柔らかく掴んで引いた。意地で踏み留まる。 「嬢ちゃん?」 「こっちも吸うの?」 「…ちゃんと言っておけばよかったな。脅しちまって悪かった。報酬前払い分、きっちり働く」  日光を浴び、癖のある黒髪が白く照っり、傷んだ毛先が綿毛のようだった。事も無げに笑みを向けられる。極彩は見え透かされた感じに苛々とした。 「そういうのも、必要なの?」  熱い手に掴まれた腕をぷらぷらと揺らす。 「そういうの?あ~、いや、あれは俺の、その、体質。ほんっとに悪かった」  桃花褐は首を傾げ、拗ねた態度の極彩を見つめる。 「ああ、卑劣漢みたいな真似して悪かった。こんな外道なこと、もうしない」  掴んでいた彼女の腕を放し、大きな身体を縮めて両手を合わせ、顔を覗き込む。素直な謝罪に自己嫌悪した。蛙も人肉も食わずに済ませた相手に醜態を曝している。過酷な通過儀礼に比べれば大したことはなかったというのに。 「…うん」 「貧血気味になったら言えよ。異教徒になっちまったけど寺、帰ろうな」  髪を掻き乱される。慰めているらしかったが大風の後のようなものだった。 「本当にもう、紫雷教なの」 「俺が許可した。あ、そうだ、これな。失くしなさんなな。特注で高ェから」  蛙を模した鈴を渡される。掌に乗ったそれを指で摘まんで調べた。土留(どどめ)色と赤で組まれた紐が付いている。 「そんな珍しいもんじゃねェでしょうに。行くぞ、ほら」   濡れた姿のまま2人は色街を横切る。異様な風采に人目についたが大きな身体に匿われ、人懐こい笑顔で誤魔化し、用心棒と淡香寺に向かった。長い階段を登り、石畳を外れ玉砂利を踏みしめ庵へと辿り着く。範囲を広めている雑木林に囲われたそこで翡翠は縁側に座していた。膝に頬杖をつき、胡坐をかいている。眉を上げ桃花褐を眺めている。 「おやおや、隅に置けませんねぇ」  翡翠は草履を突っ掛けてやって来た。訝しげな目が半分も乾いていない衣類を遠慮なく観察した。口元には微笑があるが穏やかなものではない。 「誰だ?近頃見ない胡散臭さだな」  桃花褐は極彩の前に立ち、翡翠から庇う。 「ちょっと、」  背後から脇腹を小突く。だが男は頑丈だった。 「彼女の先生みたいなものですよ。そう警戒なさらず。翡翠と申します」 「先生だぁ?やっぱ令嬢なんじゃねェか。桃花褐と申しまさ。不言通りで見掛けまして。つい口説いちまい、今に至ります」  翡翠は(わざ)とらしく上体を傾け、大柄な男に隠れた極彩に目を合せる。 「それはお世話になりました。彼女に代わって礼を言わねばなりませんねぇ。ところで随分と…素敵な遊びをしてきましたね?」 「年甲斐もなく水遊びなんかを。田舎()っぺの貧民どもの遊びをついつい教え込みたくなる無垢な嬢ちゃんだったんで、ね?おかげで童心に帰れましたわ」  翡翠は微笑を湛えたままだったがやはり穏和な空気はまったく感じられなかった。 「風邪をひいたら大変ですね」  おいで。聞いたこともないほど甘ったるく優しい声音で呼ばれ、極彩は桃花褐を越えた。 「湯を浴びてきたらどうですか」  “先生”は言った。有無を言わせぬものがあったがすぐに頷けなかった。 「でも、桃花褐さんに、まだ話があって…」 「なるほど?湯を沸かしておきますから、あまり長くならないように…この季節だというのに、相手方もずぶ濡れのようですからね」  庵の主は去っていく。 「住職か?にしちゃぁ若ェな。――って言っても俺より上か」  引戸に消えるまでの他所の宗教家を見つめながら桃花褐は言った。 「そうなの?」 「で、話?なんかあったか?もしかしてまだ俺といたかったとかですかい?」 「違う。まだ用心棒の報酬、払ってなかったから」  ぴしゃりと否定し本題に移る。桃花褐はきょとんとしていた。数秒そうしてから、にかりと笑った。 「それならもう払ってもらった」 「え…?」 「うん、また会うときは不言(いわぬ)に来たらいいや。色街に来たりしなさんなな。浅緋(あさあけ)屋っつー酒屋にいるから」  桃花褐はもう帰ろうとして背を向けかけていた。 「浅緋屋?」  確認する。桃花褐は頷き、じゃあな!と別れを切り出した。 「ありがとう」  大きな体躯が小さくなり、それから曲がって見えなくなるまでそこに立っていた。庵に入ると框を上がってするの居間から漂う湯気で廊下が白かった。 「まったく何したんです、おいくつになったんですか。女性に年齢を問うのは失礼に当たりましたね、失敬。早く入ることですよ、衣類が乾きませんからね。着替えはワタクシの物でいいですね?嫌なら裸でどうぞ。他に誰もいませんし、この季節に水遊びなどとほざける羞恥心がそれだけは許さんというならワタクシは寝ますよ」  居間に入れば怒涛の嫌味が吐かれる。何度も頷いた。 「すみません。では、お借りします」 ええどうぞ。半ば投げやりに返され、極彩は居間に隣接した小さな台所の脇にある狭い風呂場に入った。風呂から出て翡翠が用意していた着替えを身に纏う。長身の男性の服は大きく、裾や袖を何回か折る必要があった。 「いただきました」  家主は縁側で爪を切っている。 「はいはい、お帰りなさいね」  極彩は座布団に腰を下ろす。爪を切り終えるまで火傷痕を後ろから見ていた。範囲は広い。姿を見せない間に何かあったらしかった。
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