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第119話

 奥で飼ってんだわ、と言って桃花褐はまた別の部屋へ行こうとした。生の蛙の味を想像し、わずかな迷いが大柄な男の衣類を摘まんだ。食うに困ったことがない。生で食べたことなどなかった。 「…少し、待って」  極彩の反応に桃花褐はにやりとした。全て冗談で揶揄であることさえ匂わせている。 「…冗談だ…あ~、半分は。今日は見るだけ見て、もう少しゆっくり考えることだな。入っちまえば俺たちは兄弟姉妹(かぞく)だ。ンでも、棄教と背信は赦されない」  桃花褐からふざけた笑みが消えた。さらに低い声で、据わった瞳が極彩を捉えて離さなかった。蛇に睨まれた蛙。そういった気分に陥る。脅迫や恫喝の現場のようだった。眠たげな婿候補に自らが行おうとしていたことだったが空気感がまったく違った。所詮は武器を晒すだけしか能のない強要だったのだと思い知る。心から願って入りたいわけではなかった。肩の傷がわずかに疼いた。 「時間がないから…」  呟くのがやっとだった。桃花褐は大仰に上体を捻り、顔を覗き込む。時間だぁ?と復唱した。 「何の時間だよ。病気の恋人でもいんのかい」  首を振った。短期間、共に過ごした雛のような世話係の人形のような姿が脳裏を過った。小さな体躯にせよ決して軽くはないだろう彼を抱き上げ揺する二公子の落胆した後姿もまた炙り出されていった。 「入る」 「自棄(やけ)起こすなよ。訳を話せって。多分、俺が嬢ちゃんを取っ捕まえたのは…思し召しなんだろうさ、雷光様の」  廊下の土壁に押し付けられ、左右は彼の両手が塞いだ。 「関係ない…早く、入れて」 「分かんない姉ちゃんだな」  薙ぎ払うように身体を掬われ、担がれる。 「ちょっと…、何…っ!」  桃花褐は玄関で極彩の履物を拾い、そのまま外へと出た。会館の裏に回り、小さな池が見えると桃花褐の筋肉質な身体にしがみついた。 「積極的だな?」  軽口を叩いて桃花褐は倒れるように自ら池へと飛び込んだ。身を翻し、男は下敷きになる。視界が大きく揺らぎ、視界一面に褐色のしなやかな胸板が映った。全体重を乗せることに躊躇した一瞬で両腕が大きく開いた。水飛沫が高く上がる。澄んでいるとはいえない水が口の中に小さな玉となって口内に侵入した。 「頭冷えたか?」 「最っ低!」  全身ずぶ濡れは免れたが衣服は大きく色を変え、両肘両膝までは池に浸かっていた。胴もまた奇行に走った男の驟雨により模様が浮かび上がっている。 「遊びじゃねェ。他宗教(よそ)様と違う。人生棒に振っちまうことだってあんだ。そこんところ、よく考えてくれねェですかい」  極彩が自力で立つと桃花褐もまた起き上がった。犬のように頭を振り乱して水滴を払い、隣人に水気を浴びせた。 「みんな、邪宗とか勧めないとか…分かってる、つもり…分かってるけど…」 「興味持っちまうのは分かるよ。だから一妻多夫だの同性婚だの言ってんだ。…紫雷教(うち)の入信の仕方は、生肉を食うんだ。出されたな。人の肉さな。どうやって入手してると思う?腹の中で死んだ子だとか堕胎した子をもらってくるんでさ。生まれて間もなく逝っちまったのもあったな。生けずして死んだ、彼等の生命の力を蓄えるんだとさ。カエルちゃんは食わない。だが人は食う。出来るか?」  頬を滴った水を剛健な指に拭われる。 「知らねェで済むヤツはいるさ。教えねェ勧誘者もいる。自分が勧誘する立場になってから知るヤツもな」  桃花褐は一度手を下ろすと、再び手を差し出した。握手を求める手付きだった。冗談の気配を探る。しかし垂れ目は彼女を真っ直ぐ捉えたままで、口元は自嘲的に吊り上っていた。腕を上げかける。 「最も死者を尊ぶ弔い方は、死者を食うことだとさ。家畜を食うのと同じ要領だ。生きていた理由が違えどな。出来るんですかい。遺骨だの遺灰だの食うのは他宗教(よそさま)にあったけど、紫雷教(うち)は死肉だ。はいそうですねっつって信じられるならいいんでさ。ただ、もうその歳まで出来上がっちまってる文化を覆すのは難しいことは俺も分かってるつもりなんさ。それでも?」  差し出されたままの手に応えられなかった。目の前で滅多刺しにされた師の血塗れの肉体を喰らえただろうか。病身の叔父の骨と皮だけの身に歯を立てられるだろうか。 「その、ごめんなさい。でも…でも…」 「桃に歯を立てるのとは訳が違う。遠慮すんな。イカれてる、気持ち悪いトコロなんだよ」  桃花褐は快活に笑った。 「話してみろって。――宗教家として、な」 「…罪のない人が、獄中にいて…」  ぽつりと極彩は溢した。信用してみたくなった。 「うん」 「一妻多夫制なら、結婚して、恩赦を狙って、もしくは、宗教的治癒として出家させられたら、或いは…」  縹の企てを説明する。 「それは嬢ちゃんの考え?少し甘いな。そんなことしてたら街中に元囚人が蔓延るでしょうが……軽犯罪だよな?」  ちなみに、とばかりに横目で確認され、極彩は俯いて首を振った。 「死罪」 「正気か、嬢ちゃん…」  露骨に眉を顰め、極彩は長たらしい説明を始める。常盤地区の墓園で起きた話から幼い襲撃者の話まで。二公子の名はある権力者と置き換えた。 「…分ぁった…親の脛齧るか~」  突然彼は空を仰ぎ、大きく伸びた。池から出て濡れた服にも構わず地面に跡をつけていく。水難を逃れた履物に濡れた足を突っ込んで後を追う。 「ちょっと、どこ行くの?」  訊ねてみて違和感が残った。調子を狂わされる。 「嬢ちゃんは紫雷教(こんなところ)入らなくていいんだ」 「どこに行くつもりか分からないけれど、そんな格好で行くの」 「おっと、用心棒の仕事は果たすさ。取り合えず今日はどこに泊まるんで?まさか星空宿(やどなし)なんて言わねェだろ。送りまさ」  淡香寺。敵地にいる心地がして呟くように答えた。 「寺に泊まるんかい。本当に宿無し乞食って風情があんな。しかも船旅宗教ンとこか。えーっと、どこだったっけな…」 「長春小通りの…」  そう。桃花褐は指を鳴らした。よし、帰るぞ、と元気よく言うと、濡れた身体に構うことなく歩き出す。極彩は立ち尽くしたままだった。 「なんだ、不服か。まだ憂いがある?」 「だって…まだ何も解決してないから…本当に時間がないの。3日、4日、いつあの人たちが処されるかも分からないし…このままのこのこ帰れない…あなたの忠告はありがたいけど、きっといつか慣れると思う。お願い、入れて」 「入れて、入れて、お願い、入れて…ね?」  桃花褐は笑い声を押し殺した。少し離れた距離が縮まる。乱雑に腕を掴まれた。 「脅しが足らなかったみたいだな?来い」  腕を折っても構わない、潰しても構わないといった容赦のなさで振り回すように小さな納屋に放り込まれた。暗く湿っぽい小屋だった。出ようとしたが塞がれる。厚い胸板に跳ね返される。 「条件がある。アンタには人肉なんて食わさない。勧誘の最低課題もない。代わりに、」  短剣を構える。だが下ろした。桃花褐の声は掠れ、欲求に満ちた危うい色を帯びていた。昏い眼差しと悦に浸った笑み。色街で見たもので、覚悟したもの。選んでいれば手っ取り早かったかも知れないくせ、躊躇していたもの。何を要求されても必ず(がえ)んじろ。逆らいそうになる感情に理性が冷たく言い放つ。少し厚みのある唇が開いた。拳を握りしめる。 「何でも、する…から…」
良い
エロい
萌えた
泣ける
ハラハラ
アツい

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