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第118話

「……ごめんなさい…よく覚えてない。一から説明してほしい…」  瑞々しい若者の声だった。懐かしさがあった。しかし喋り方は今にも寝落ちてしまいそうなほどはっきりしない。大怪我の反動なのだろうか。婚姻届のことを無かったことにしたいと言い出さないか、不安が過る。 「あなたを落札したのはわたしです。あなたはわたしの婿になるしかないんです。今更断ることは承知しません。承諾しなければ突き出します。奴隷商殺しとして」  嬢ちゃん!焦った声で狐は極彩の腕を掴んだ。 「結婚しなきゃならないんです。あなたみたいな出自の分からない人と。お願い、承諾して。従って。もう血判も署名もあるの。でも欲しいのは同意だから…」  気が急き、短剣に手が伸びかかっていた。縹が安心できるのならこの“競売品”を利用することにも脅迫することにも躊躇などあってないようなものだった。決して自身のことですらない頼みを叶えたい。せめてひとつは。返事を急くあまり短剣の柄に触れた。拒絶されたなら口を封じるしかない。殺せるか。迷いはあるが殺すしかない。 「その…婚姻届は…じゃあ、ぼくが、書いたの…?」 「はい。間違いなく。血判も」 「分かった…じゃあ、結婚しよう」  短剣に伸ばした手を下ろす。若者はまた琵琶を弾き始めた。 「ありがとう。婚姻届を出しに行くときだけ、付き合って。またここに来るから」  琵琶が返事をする。少し離れて待っていた狐に合流する。 「胸がこう、甘酸っぱいわ」  狐は両手で顔を覆って言った。 「あれで?」  坂道を上がり、紫雷(しでん)教の集会場に向かう。 「めちゃくちゃ奇遇だよな。運命の糸で結ばれてるのかも知れませんな?」 「それは紫雷教の教え?」 「さぁ?どこからどこまでが個人のものなのか、自分でももう分かりませんや」  大仰に肩を竦めて狐は答える。入信して長いらしかった。 「ところでさ、婿さんと名前同じだと拙いだろ。俺のもうひとつの名前は桃花褐(つきそめ)。さすがに婿さんの名で呼ばせられないわ。うっかり婿さんと同じ名で呼ぶなよ」 「多分会うのはあれでほぼ最後だと思うけれど」  怪訝な目に何か問われているが極彩は答えなかった。 「結婚急かされてんの」 「そういう風に映った?」 「紫雷教にはどうして興味がある?」  話し掛けるのにいちいち身体に触れる必要があるらしかった。腕に接した手を叩き落とす。 「偽装結婚する必要があったんだな?わざわざ闇競りで?それで紫雷教…」  邪推されているようだが極彩は弁解する気が起こらなかった。する必要も感じられない。  道中、桃花褐と新たに名乗った男は雑談を延々としていた。極彩は半分は真面目に聞いていたが半分は流し、適当な返事をしていた。そのうちに会館が見えてくる。細かく蛇腹状になった亜鉛鉄板が張られ、褐色に錆び、見るからに古かった。入口には粗末な衣類を身に纏った若者2人が門番のように棒を持って立っている。彼等は桃花褐に気付くと退屈そうな顔に親しげな笑顔を浮かべたが極彩の姿を認めると、それが嘘のように険しい顔へと切り替わった。桃花褐が大きな身体で2人の若者に極彩を隠す。 「少し待ってろぃや。ちょっくら話つけてきまさ」  桃花褐は彼女に振り返ると片目を閉じた。会話は聞こえなかったが渋々といった感じで門番らしき2人は極彩に目配せする。桃花褐は腰に手を当て、がはがはと笑っていた。それから軽い調子で手招きされ、まだ邪険だと訴え続けている門番2人のもとへ歩み寄っていく。 「彼女は白梅(しらうめ)。あんま警戒すんな。害のある人じゃない。俺の客人だから、丁重にするこった」  少し距離を置いて立ったものの、2人の若者の前まで腕を引かれ、極彩は真正面から敵意を受けなければならなかった。豪放磊落な男を除く3人は沈黙と緊張、牽制の中にいた。自己紹介を自身の口からするべきか迷いながら2人の眼差しに耐える。若者2人も互いを探っているような感じがあった。「んじゃ行くぞ」の一言に救われた。浅黒い腕に引かれ、若者2人が守る入口の奥へと入った。 「悪ぃな。普段はあんな陰険な奴等じゃねェんだけどよ。若くて綺麗な娘が来たんで、まぁなんていうんだ?俺たちみたいな友情一辺倒の男どもってのは陰気な部分が出ちまうんだよ、お日様が眩しいと影が濃くなるみたいにな」 「また軟派なこと言うの」 「軟派だったか?今の。割りと本気だったんだけど」  敷地は寂れた土地特有の広さがあった。納屋と井戸、裏に水草の浮かぶ池が見えた。 「まぁ、無礼な態度だったのは俺からも謝る」 「あの人たちの兄貴分なんだ」 「親父がそこそこ権力者なんでさ。いいね、親の権威で甘い汁吸えるたぁ」 「確かに」  同意する。意外だとでも言うように垂れ気味の目が瞠られた。 「おいおい、まさか令嬢か。育ちが良さそうだとは思ったけどよ、俺(まず)いかもな、こんな所に連れ込んじまって」 「令嬢では、ないと思うけれど」 「か~、毒を喰らわば皿までだ。今更手ェ引かねェぞ。悪ぃコト教えちまうかも知れねェが、ほどほどにな」  格子戸がからから鳴って開かれた。履物を脱ぎ、(かまち)に上がると自然な動きで桃花褐は極彩の履物の向きを揃え、自身も三和土を前に履物を脱ぐ。 「集会っていっても熱心に青願(せいがん)してるだけだぞ。空に向かって祈ることな」  数歩先にある襖を開ける。畳の部屋で十数人が座り天井を仰いで両手を握り合い、目を瞑って硬直していた。部屋の最奥には白い布が敷かれたテーブルに蝋燭と、おそらく銅製と思われる蛙を模した像が置かれていた。 「あれが紫雷教(うち)の神様…の遣い。カエルちゃんだよ。うちはな。まぁ無駄な殺生はしないだろうが、踏み潰したりしないことだな。それからヤバそうな時は助けること…たとえ相手が飢え死にしそうなヘビでも…乞食でもだ。その時ばかりは殺しちまっても、むしろ善徳ってワケだな。まだ他にもあったな。多過ぎて忘れちまった!でもまぁ基本はそんなもんでさ」  桃花褐は室内を見回している極彩にそう説明した。 「まぁ、あんまりのめりこまねェことだ。布施で大破算、修行で一家離散、勧誘で孤立。無い話じゃない」  肩を後方に引かれ、襖を閉められる。黄ばんだ松の意匠で視界が閉ざされた。 「より一層興味持っちまった、なんて言うなよ?」 「信者は増えたほうがいいんじゃないの」  桃花褐は極彩の肩を抱いてさらに奥の部屋へと連れて行く。日当たりが悪く、内装からして給湯室のような場所だった。 「カエルちゃんをな、殺すんでさ。守っておけと言われた神の遣いを。我々が身と心を捧げるのは神であり下界のものではないっていう意思表示でさぁね。神の遣いを殺す、そういう困難を乗り越えてまで忠誠を誓えるかってこと」  低い声が囁いた。 「それ…だけ?」  縹や翡翠の制止は何だったのだろう。極彩は拍子抜けして桃花褐を見た。生きている物を殺すことに躊躇いはあるが、それでも人命がかかっている。蛙の命と人命を秤に掛ける。小さな命は軽かった。 「食うんだよ。罪を背負え、其方の業を見せてみよ、とばかりにな。それで神の遣いの死骸を身体に取り込む。火も通さない。まぁ、生魚食ってるわけだし、いっちょやるか?喉元過ぎればうんたらかんたらっていうしな」
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