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第116話

 血判と住所の記入を確認する。あとは極彩の名と血判だけだった。 「紫雷(しでん)教をご存知ですか」 「邪宗と名高い紫雷(しでん)教ですか。知ってますよ」  住所には東雲(しののめ)南区と記されている。その地には覚えがある。 「邪宗なんですか」 「時代に合いませんよ。一妻多夫制なんて。妙なものに興味を持ちますね。酔狂ここに極まれり、ですねぇ。まさか、入る気じゃないでしょうね?」  婚姻届を畳む。翡翠は近くに生えていた狗尾草(ねこじゃらし)を引き抜き屈むと溜池にいる亀に向けて揺らしはじめた。簡潔に事情を説明する。 「反対されるでしょうねぇ、それは。叔父御はよく分かっていらっしゃる。何かこう…紫雷教(あそこ)はまぁ、信仰の寛容さに甘えているだけという感じがしますね。そもそもは人を正すためにある教えだったのに曲解が生まれている感じが否めません」  亀はまったく翡翠の狗尾草(ねこじゃらし)に興味を示さなかった。置物にすら思えた。鯉はすぐさま集まったが餌をもらえないことを知ると散っていく。 「人は皆々が同胞であり家族なのだから妻の子は男子皆々が囲い育て上げるべきだ、とか。まぁ中身のない形式的な結婚であるなら別でしょうけど。ただ妻が1人だからといって権力を握れるのが貴女だとは思わないことですよ」  鯉が水面を叩く。波紋が広がり逃げていく。 「ワタクシも勧めませんね。宗教ってところと複婚制とか同性愛を許容しているとか謳い文句に期待を寄せるのは結構ですが、そう生温いものではありませんからね、忘れないことですよ」  黒と赤の鯉が目の前を泳いでいった。亀は首を伸ばしたまま固まっている。置物なのではないかと教えるほどだった。 「これからどうするんです?本当に出ていく気ですか」 「はい。暫く帰って来るなと言われましたから」  赤とんぼがどこからともなくやってくる。じゃらす気のない雑草に止まったが微かな揺れに気付くと飛び立った。 「意外でしたね。彼にあんな情があったなんて。それに貴女に声を荒げたのも」  翡翠は持っていた草を捨て立ち上がり、寝る場所に困ったら寺にいればいいですよ、と言いながら極彩の眼前に来た。 「傷は酷いんですか」  噂は聞きましたよ、と加えられる。一部が焼け爛れた顔にはばつが悪そうな表情がある。 「そう酷くはないです」  より一層眉間の皺を深め、少しの間極彩を眺めている。衣類越しに傷を捜しているようだった。 「すみませんでしたね」  投げやりな謝罪だった。訳が分からず極彩は翡翠に目だけで問うものの顔を背けられてしまった。そのために焼け爛れた範囲が広いことに気付いてしまう。日は経っているようだがやはり最近のものだ。 「翡翠さんは大丈夫なんですか」 「雇い主がおかんむりってことがですか」 「いいえ…」 「でなければ知りませんね」  今日も葬式ですよ、危ない真似はしないように。鬱金色のローブは目の前を通り過ぎて行った。 離れ家へ戻ると短剣と着替えと財布を持ち、桜へ書置きをして城門を出た。  暫くは不言通りを見物していた。何を買うでもなく店を見て回った。3日、4日の間に予定はなかった。そのうちに罪のない一家は処刑されてしまうのだろうか。一度だけ城のほうを振り向いて、また不言通りを抜けていった。小さな犠牲は本当に何の役にも立たなかったのだと二公子は証明する気なのだろうか。洗朱通りに繋がる小道は封鎖されていた。途中で紫雷(しでん)教の貼り紙を見つけ、集会の場所があるという情報を入手した。色街の先にある区画で弁柄地区とは土地の高低差を利用して少し離れている。縹と翡翠は反対していたが暇な足は自然と目的地を知っていた。指名手配犯染みた扱いになっているということも忘れ、時間帯的に活気のない色街を歩く。数えられるほどの通行人は洗朱地区が吹き飛ばされた日の夜を思い出させた。彼等は極彩をじろじろ見ては目を逸らしていった。 「犯人は現場に戻ってくるってな」  背後の気配に反応するよりも先に捕まった。逞しい腕が胸元に回る。隠し持っていた短剣を引き抜きながら下から潜り抜け、身を翻しながら背後の者を蹴り上げる。後退した巨体にさらに追い打ちをかけ、転倒させた。頭部の真横に突き付ける。すべて反射だった。己の動きに驚き、すぐさま短剣をしまった。身を竦ませて背を向け、数秒間のことは無かったことにして歩き出す。 「指名手配犯確保せりっ」  剛胆そのままを絵に描いたような体格のいい男が極彩の肩に触れた。容赦なく鷲掴まれ、痺れが走った。外跳ねの癖がある黒髪が鬱陶しく首まで伸び、浅黒い肌に並びの良い白い歯が輝く。 「放せ」  腕を引くと意外なほどあっさりと放される。反動で後ろにのめりかけたが筋肉ののった腕に支えられた。 「とっとと帰りな嬢ちゃん。見逃してやるよ。面倒事が起きちゃ、色街(ここ)を楽しめやしない」   豪快に笑って男は極彩を見下ろした。値踏みされているような感じがあった。色街では珍しくないことだ。 「思ったより育ちが良さそうだな。本当にあんさん、例の極悪人?」 「極悪人?ここで何があったっていうの」  男は快活な顔を崩しはしなかったが眉間に皺を寄せた。 「犯人がそれ訊くたぁね」 「犯人じゃない」 「ンだら重要参考人か。奴隷商が殺されたどころか闇競りがバレて…って事件。嬢ちゃんのほうが詳しいんじゃないんですかい?」  垂れ目を見開く男のほうがむしろ訊きたいことは山程あるといったふうだった。極彩は首を振った。 「何も知らない」 「何も知らない?犯人は大概そう言いまさ。でもま、本当なら、そりゃ災難だ」  手を叩き男は快活に笑った。 「それで今日は、何しに?嬢ちゃんにとっちゃこんな危険地帯に」 「散歩」  親しげに訊ねられ、ここではよくあることらしき軟派な態度に身構えてしまう。 「…それって俺、誘われてる?」  「どういう解釈でそう思うの」 「暇ってことだろ?」  極彩は信じられないとばかりに話の通じない男を凝視し、何も返さず先に進んだ。 「随分と堂々としてんな。俺が見逃したとして他の輩は分からないぞ?懸賞金目当てに…いいや、嬢ちゃん目当てに…なんてこともある。悪ぃこた言わねぇ。とっとと帰んな」 「この先に用があるのだけれど」  極彩は紫雷教の集会場所があるらしき会館の方角を指で差す。男は眉を動かした。 「あんさん、家無し?」  男はふざけたような難しいような、渋い表情を作る。 「今はそんな感じ」 「今は?」 「3日、4日くらい」  なんだそりゃ、と男はたまげた顔をした。構わず進もうとした極彩の肩を再び容赦なく掴んだ。傷口に響き、痺れと共に小さな痛みが走る。そして薬を忘れてきていたことを思い出した。持ってきた覚えたがまるでない。 「危ないだろうが。3日4日もあんさんみたいな小奇麗な若い娘がその辺で寝泊まりしてたらよ」 「あなたには関係ない」  触れられている手を叩き落とす。 「関係なくねぇって、もう。聞いちまったんだからな。事件・事故は未然に防ぐ。色街利用者の鉄則な?」  極彩は顔を顰めて男を見ている。 「じゃあわたしは違反者ってわけ」 「ンでも突き出さなきゃ水面下だ。俺は何も出会わなかった。風変りな別嬪さんを見かけただけ。どう?」 「それは、結局口説いてるの?」 「おっと通じたんですかい。じゃあまずは自己紹介から」  男はへらへらと笑ったが、目元は何か疑っていた。
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