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第112話

「失礼するよ。具合はどうかな」  把手(はしゅ)が回り、重病人は怪我人を見下ろした。訊ねたいのは極彩のほうだった。快方に向かっていると思われたが、視界が何重に揺らいでいても横半身を覆う紋様の痣は薄くなっている様子がなく、骨と皮だけといった容貌で髪にも艶がない。色の悪い唇は微笑を湛えてはいるが、それがより彼を痛々しく見せる。極彩の今の容態ではそれが分身しているのだ。 「悪くはないです」 「それはよかった」 極彩がふと捉えた棒のような片腕に包帯が巻いてあった。蔦を模した刺青のような痣が浮かんでいるその腕だった。骨が折れでもしたのか、それとも痣が痛むのか。凝視していたことに気付かれたらしく、縹は包帯の巻かれた腕を背に回した。 「少し、捻ってしまっただけだよ。見た目ほど重くはない」 「お大事にしてください」  白目が青痣に侵され、色素の薄い瞳子(どうし)はその中で真っ直ぐ姪を見下ろしていた。極彩もまた答えようとするものの焦点がずっと合っていられなかった。 「ありがとう。先に君に言われてしまうとはね」 「椅子をお持ちします」  桜は会話を切らぬように遠慮がちに告げて退室していった。 「本当に素敵な若者だよ。後腐れ…いいや、危惧さえなければ君の……なんてね。それは君の自由だけれど」  揶揄するように言われ、用件を知った気になった。 「今、探しているところです」 「すまないね。慌てなくていいよ―とも言っていられる状況ではなくて。その話は置いておくとして。今回のことは災難だったね」  桜はすぐに椅子を見つけて戻ってきた。縹は礼を言って腰掛ける。叔父の香りが鼻腔に届き、目頭がわずかに沁みた。縹は桜にすまなそうに席を外すように言う。快諾と再びの退室の音、そして沈黙。一点を見ていると目が回り、自然と極彩の目は泳いだ。大丈夫かい、と声がかかる。 「大丈夫です。今はあまり視界が利かないのです。ご無礼をお許しください」 「何が無礼なものか。君の楽な姿勢でいいんだよ」 骨が浮き出たことで峻烈な印象を与える、端整だった面構えがさらに尖ったものへ変わる。 「桜くんの元の家庭のことはもう聞いているのかな」  極彩は頷いた。すると縹はばつが悪そうな表情をする。 「桜はもう関係のないことだと言っていました」 「そうだね。その通りだ。縁を切ったのだし、彼は腹も切った」  曇った顔が晴れているのが一瞬見てとれる。深く首を突っ込むことではないのだろう。 「紙を破ったみたいに、はいおしまいという具合に、割り切れるでしょうか。人は(しがらみ)だの、過去の思い出だのを」  縹は黙り込んだ。困らせることを言っている自覚はあった。罪悪感が湧き起こり、それが一種の快楽にさえ思えた。 「…難しいことを言うね。足掻いてみるかい」 「やれるのなら」  隣から深く息を吐く音がする。視界は揺れ、耳鳴りも聞こえている。もし叔父の一時期の視力と聴力の低下がこの状況より酷かったのだと考えると胃が締め付けられる感じがあった。 「本気かな」 「半分は」  縹は再び黙り込んだ。叔父を苛んでいる自身に憤り、静けさに焼かれ、熱が上がった。背中が汗ばむ。沸騰しそうだった。どうしても守りたい者の前で暴れたくなったが、縹は漸く口を開く。 「方法がなくはない。ただ可能性の話で、絶対ではなくて、大変なんだ」 「あるにはあるんですね」 「あるにはある。けれどボクは気が進まないよ。きっとこの忖度(そんたく)が君を追い込むのではないかと思ってね。それが怖い」  話を切り出したのは縹のくせ、動揺し、困惑し、遅疑(ちぎ)逡巡(しゅんじゅん)している。俯いていた。 「何故です」 「君しか出来ないことだから。けれど、やらなくたっていい。ボクは勧めない。ボク個人としてだって、叔父としてだって、君を近くで看てきた者としてだって、ボクは勧めない。勧めないどころか…」 「教えてください。不肖の姪で申し訳ありません」  縹は無言のままわずかに極彩へ顔を上げる、眉を下げ、優しげな目元は急に苦しくなる幻の痛みがあった。 「一妻多夫制を採るんだ。そのためには改宗する必要がある。でもこれが……」 「一妻多夫制」  復唱した。 「紫雷(しでん)教というのは、知っているかな」  初めて耳にする宗教だった。知らないかな。問われ、首肯する。雷こそが神を証明するという思想で、天空そのものを雷公と呼び、空へ祈りを捧げる習慣があるのだという。(せん)教とは異なり、死後は空へ帰り、星となるのだという。筏で長旅はせず、生まれ変わりという概念もないらしい。 「詳しいことはボクも知らない。ただ紫雷(しでん)教に入信するのなら、一妻多夫制は認められるけれど…紫雷(しでん)教の者とも結婚しなければならないよ」 「…それで」  続きを促す。縹はさらに眉を下げるだけだった、 「婿取(めと)るんだ。誰でもいい。彼の同胞の誰でも。兄でも弟でも。正式な配偶者でないなら…姉でも妹でもいい。獄中結婚なら恩赦があるはずだ………なかったら、宗教的治療の必要があるとすれば、出家させて、無罪放免だ。もともと下らない罪状なんだから…」  縹の声は少しずつ途切れ、掠れていった。しまいには極彩を抱き締めた。ボクは勧めない、を繰り返す。考え直せとまで付け加えられる。 「可能性の話で、確かなことではないんだ。二公子の風当たりはきっと強くなるだろう、今よりもずっと。君は異教徒になってしまうんだから。君は、ボクの我儘以外にもまだ…一妻多夫制で同性愛にも寛容だなんて謳っているけれど、結局神の名を後ろ盾にしている女性蔑視も甚だしい教義だ。君が紫雷教(あそこ)で幸せになれるとは、ボクには思えない」  骨が固く浮き出る薄い身体に腕を回した。縹はゆっくりと極彩から離れる。傷んだ毛先が頬を撫でた。 「縹さん…ありがとうございます。いつも縹さんには頼りっぱなしで」 「改まって何。当然だろう。君はボクの…」  鼻を鳴らし、縹は微笑むだけだった。 「期待とか夢とか理想とか、そういった眩しいものが人を押し潰すこともあるから、やっぱり言わないよ。けれどそういうことだ。卑屈にならないで」  意味を探っている間に縹は廊下にいるらしき桜を呼び戻す。 「桜くんの言うことをよく聞いて、よく休むことだ」 「はい」  縹は桜の肩を抱き、軽く叩いていた。掌の骨が割れるのではないかと思うほどに脆そうだった。 「姪を頼むよ。世話のかかる一族ですまないね」 「と、とんでもない!」  縹は冗談めかして去っていった。 「叔父の容態は良いのかな」 「…はい。視力も戻りましたし、筋力も少しずつ」  桜から顔を背け、厳しい質問をしてしまったことを反省した。 「そうか。やっぱり雄黄を探しに行ってもいいかな」  訊いてしまいそうなのだ。訊いてしまうだろう。訊いてしまうのだ。実際に一度訊いてしまっている。桜と居るのは居心地が良いが縹と話した直後だと途端に耐えられなくなるのだ。 「誰か向かわせます」 「わたしから頼むことにする。もう大分休んだ。そのうち歩き方まで忘れてしまう」  彼は立場が立場だ。部屋を移ったときも他の下回りや官吏とぎこちなかった。 「御主人」  立ち上がる主を沈痛の面持ちで呼ぶ。
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