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第110話

 少しの時間寝ていた。布団から這い出る。桜は極彩の寝ている場所からは死角にある、冷暖房が直撃してしまう具合の悪い位置にいた。そこはもはや彼の指定席も同然だった。分厚い書を開いていたが四つ這いで布団から出てきた極彩に気付いていた。 「その…」  極彩はばつが悪そうに桜を伺う。そこには優しげな笑みがあるだけだった。 「少し具合はよくなりましたかね」  桜は書を閉じ、まだ四つ這いになっている主人の傍らに跪く。失礼します、と断ってから額に手を当てた。乾涸びた蒟蒻のようになった解熱用湿布が常温と化して剥がれた。首や頬を手の甲が触れる。 「具合は大分いい」  立場が逆転し、彼こそが飼い主で自身は主を見つける野良犬のように思えた。 「よかった。でもまだ安静にしていてくださいね。何か召し上がりますか」  腹の奥に小さな希求を感じた。桜の問いに口を開いたと当時に玄関が開いた。訪問者を訊ねるよりはやく桜に視界を塞がれ、傷口も何も関係なく力強く抱き締められた。耳を突き破っていきかねない破裂音が数度続く。花火に似ていて、花火よりも大胆さがあった。離れ家に馴染み、溶け込んでいたというのに真新しさすら感じられた桜の匂いが鼻先の間近にあるというのにそれを上回ったのは火薬臭さだった。室内が煙で霞む。玄関とは反対にある大窓のガラスが割れた。次から次へと聴覚が情報を拾い、それが却って奪っていく。 「桜ッ!」  桜を抱き留め共に転がす。ガラス片の驟雨から逃げきった。外の藪の奥で何か蠢いた感じがあったが視界はすでに二つ重なり歪んでいた。目を眇める。小さな動きだけは何とか確かめられ、咄嗟に床に倒れる桜の上へ、押し潰しながら伏せた。壁に矢が突き刺さる。だが矢にしては短く、(ぞく)も銛に近いほど両端が鋭く反っていた。刺されば、抜き取るときに周辺の肉を抉る構造になっている。 「暗器ですね」  壁に刺さった短い矢を引き抜くと桜は訝しむ様子を見せる。それから極彩の負傷した肩を見遣った。 「や、やっぱり…誰かに狙われているんですか…」  怒っているとも悲しんでいるとも分からない、極彩が言い逃れできなくなってしまう弱々しい眼差しを向けられる。 「どうしてそう思う?」 「年甲斐もなく刃物で遊んでできた傷だとしたら、わざわざ毒なんて刃先に塗り込みません……御主人。御主人は、顔を見ているんですか。もしかして顔見知りとかいうわけじゃ、ありませんよね…?」  点滴を引っ掛けていた細柱が倒れ、桜はそれを直しながら問う。極彩は首を振った。 「無防備なところを狙われたということですか…」  爆竹の燃えかすを眺め、桜は沈んだ声を出した。室内を見回し、それから極彩の前に立つ。 「ここはもう危険です。次は何が出てくるか分かりません…」  痺れていないほうの手を取り、点滴一式を持ち上げ、離れ家から出るよう促される。焦げた爆竹から遠ざけ、上がり(かまち)を跨ぐ際にも支えられた。 「最近変わったことは何か、ありませんでしたか」  珍しく強気な態度を示され、心当たりを探るもやはり異変という異変は何もなかった。玄関先で桜は外を警戒していた。荒れた肌が光りに照る。横顔を見上げていると、突然、顔面の傷が痛みはじめた。何の前触れもない沸騰に似た怒りに目の前が暗くなる。桜が何か言い掛けたが聞いてはいなかった。引戸の脇に立て掛けてある畳まれた傘を極彩は手にする。桜の元から駆け出し、点滴の針が外れた。離れ家からよく見えた庭園のようにさえ感じていた緑へ襲いかかる。恐ろしいほどに冴えた頭がたちまち、割れた窓に直面した箇所を割出した。まだいる。刺客はまだいるという確信があった。狂人と見紛うほどに藪と同一化している生垣へ傘を突き刺す。切っ先に手応えがある。口の端に笑みが浮かんだ。知った肉感がある。小柄な身体を純白の短剣で突き刺した時の抵抗と質量。押し殺した笑みは、混乱と困惑の果ての金切り声で鎮まった。足音が近付き、半ば怒っている温厚な若者に引っ張られる。 「ご、御主人…一体何を…」 「怒ってるね?」 「いくらなんでも怒ります!ま、また頬打ちするところでしたよ…!一体どうしたっていうんです?危ないですよ、まだ敵がどこにいるのかも…」  若者に守られるように立たれ、渋い顔をされた。彼は肩を抱き、極彩を外通路まで走らせた。彼女は藪を振り返るばかりだった。 「城は好きじゃないんだ」 「ですが…まだ身体の調子だって良くないんですよ。きちんと身も心も休める場所じゃなきゃ…」  桜を払い、そして離れ家へと爪先の方向を変える。桜は眉を顰め、主人を追う。 「もう誰が犯人か、分かってるんだ?」  極彩はぎらぎらとした笑みを浮かべて外通路の中心で足を止めると使用人と対峙した。若者は戸惑っている。目が泳ぎ、開いたり閉じたりする口は返答の内容に迷っているようだった。 「明日には分かるよ。明日には…」  爛漫な笑みを浮かべる主人に訝しみを捨てきれない使用人は、背を向けた彼女に後ろから腕を回す。 「触りますよ」  断りは遅かった。額の熱を再び測られる。 「ねぇ、わたしのこと気が狂ったとでも思ったわけ。毒が脳味噌に回ったとでも?ははは、それなら健全な脳味噌の仇は討ったよ」 「ま、まさか…そんな…」  極彩は陰険な笑みを若者に見せる。 「正気だよ。桜。正気じゃなかったら、あの下手糞(へたくそ)の息の根を止めてるよ。防衛本能ってやつで。正当な、自己防衛だ?」 「御主人は…もうわ、分かっているんですか…」  身震いしながら優しい少年は垣を見ようとして、だが決心がつかなかったらしくすぐさま逸らした。 「どっちだったらいい?わたしが分かってたら、不利?つらい?悲しい?」  若者は驚愕に目を見開いたままだった。極彩は笑いながら返事を待つ。傘は生垣に突き刺し、枝に支えられていた。腹を抱えて笑い出したくなった。あの中にいるのだ。分からないのなら確認すればすぐに分かる。 「いずれにせよ、犯人は同じ人ですから」  明言を避け、彼はそう答えた。極彩は我慢が利かなくなり腹を抱えて大笑いをはじめる。 「黙っておくよ。黙っておく」 「い、いいえ。もう分かっていて…すでに手討ちなら、すぐに引き渡したほうがいいです。是非、知らせてください…是非…」  言葉と彼自身の内心は一致していないようだった。 「早いところ対処しなければ危険な事柄ですから…次はいつ狙われるか…で、でも御主人…」  彼の顔面がくしゃりと歪んだ。極彩はふらりと膝から崩れ落ち、目の前の使用人に支えられる。視界が明滅し、緑を帯びていた。力が入らなかった。 「桜…?ああ…大丈夫だったか」  眉を顰めた桜に顔を覗き込まれた。急いた手付きで頬や首筋の体温を測られる。触れた相手こそ少し体温が低い。意識がなかったらしく、外通路の真中まで来ていた。 「ご、御主人……やはりちゃんと、安全なところで養生したほういいです」  桜は怯えきり、何か恐ろしい目にでも遭った風だった。確かにあの襲撃は恐ろしいものだった。仕方のないことだ。 「わたしといると、碌なことがないな。すまない」  上手く動けない2人は恰好の餌食だった。足手纏いになっているどころか、彼は爆弾を背負っているも等しい。極彩は情けない気持ちになった。励ますように、そして自身を励ますように桜の背を撫でる。 「御主人!一体どうしたっていうんです…?」 「貧血だ」 「違います!…違くはないですけど!ちゃんと休めるところで休むべきなんです!」  喚くように言われ極彩は頷くほかなかった。 
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