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第109話

 大雨の音で目が覚めた。嗅ぎ慣れた軟膏の匂いがする。引戸が開かれた。雄黄だろうと思った。汗ばんだ布団の中が気持ち悪くなり、衣服も蒸れていた。身体が熱く、湿った手を幾度か握ったり開いたりした。寝違えでもしたのか左手が痺れる。そしてふと、自身の置かれている状況に違和感を覚えた。来室者の溜息が聞こえる。起きているぞ、と主張することも声を出すことも気怠かった。寝返りを打つ。痺れた腕が何かに弱く引っ張られている。 「御主人」  控えめな声で呼ばれ、来室者は布団の傍に寄った。聞き覚えはあり、かなり近しい者であることは瞬時に理解したが、名前がすぐには出てこなかった。その者はきょとんとして極彩を捉える。 「目覚められましたか」  濡れた手拭いで首や胸元の浅い部分の汗を拭かれる。心地良さに彼の手ごと、首を(もた)げて(おとがい)で押さえ込む。 「熱い」 「少し熱が出ていますからね。すぐによくなります」  情けなかった少年は離れているうちに少しずつ変わっていく。季節を少し跨いだだけだというのに彼は置いていくように進んでいってしまう。 「桜」  彼に何か伝えなければならないことが、伝えてはならないことがあったような気がしたのだが霞んだ思考は立ち止まることを求めている。 「すまないな」 「何をおっしゃいます」  桜は布団の端を捲り、極彩の腕に繋がれている細い筒状の紐を直していた。点滴だ。極彩は点滴の袋を見上げていた。一気に情報が掻き集められていく。跳び起きると桜はびっくりして身を反らした。 「どういうこと」  布団の下は、下半身のみにしか寝間着を身に纏っていなかった。上半身は寝間着が羽織られるように掛けられているだけで下着と包帯だけだった。桜は一呼吸遅れて目を逸らす。その様は少し揶揄いたくなるようなものでもあり、それでいて極彩自身、恥ずかしさを誤魔化し「見慣れたものだろうに」と呟いた。 「御主人は患者様である前に、お慕いしている御主人ですから…」  上擦った声で顔を真っ赤にしながら桜は俯いている。 「世話になったな。…わたしは死にかけたか」 「危険な状態ではありました。解毒は済ませてありますが、副作用があるかもしれませんし、まだ安静にはしていてほしいです」  狼狽しながら視線が極彩の包帯に注がれ、不意に包帯から外されそうになりながらも焦りながら再び俯く。 「済まない。何か着よう」  羽織らされているだけの寝間着に袖を通す。湿っている感じがわずかに残っていた。桜は彼女の前に人差し指を立てる。 「何本に見えます」 「1本」 「追ってください」  上下左右に指が滑り、言われた通りに目で追った。時折焦点が合わなくなり、人差し指が二重に見える。桜は何も言わなかった。 「左手を」  促されるままに左手を差し出す。失礼します、と一言置かれると指を1本1本揉まれた。そして掌にまた彼の人差し指を寝かせる。 「握ってください」  言われるがままささくれのある指を握った。 「もう少し強く握れますか」  さらに力を込めたが痺れが走る。 「もう少し寝ていましょう。僕もここに残ります。構いませんか」 「当然だろう」  桜は安堵したように顔を綻ばせた。そして思い出す。彼の元いた家が取り潰し同然の憂き目に遭っていることに。縁を切られたとはいえ家族だ。肉親だ。そして処されるのは実際に決闘の相手であった実父でもなく、同情的な態度を示していた同胞(はらから)たちだというのだ。 「桜…」 「はい」 「…寝られたか。すまなかったな」  言おうとしたが言えなかった。桜は口の端は上がっていたし、極彩を真っ直ぐに据えていたがそのくせ何も目にしてはいないようだった。 「はい」 「すまなかったな」 「…御主人。謝りすぎです。今は熱がありますから、少し情緒に影響が出ているのかもしれません」  乾いた掌が額に触れる。蒟蒻によく似た感触の湿布越しだった。 「いや…そういうわけでもなくて」 「とりあえず今は休みましょう。僕は大丈夫ですから」  熱に赤らんだ極彩の顔面の傷は白く浮かんでいた。頬や額に乱れた毛を払いのけながら看病人は笑う。 「どれくらい、寝ていた」 「まる1日と、ちょっと…ああそうだ、紫暗先輩が地下のことは任せてほしい、言えば分かると伝言を預かっています。蘇芳殿も極彩様を探しておりました」  紫暗の名とその内容を聞き、心細さが不意に起こった。蘇芳の用件も察しがつく。それから自身に用があるものといえば他には雄黄くらいだろう。翡翠も連絡はつかない。桜が傍にいる以上はおそらく姿を現すことはないだろう。落札した婿候補の安否に焦る気持ちはあったが、深く考えるだけの肉体的余裕があまりなかった。見慣れた離れ家の物たちが二重に揺れる。 「新しい世話係が来たんだよ。彼は来なかったかな」 「僕は会いませんでした。事情を聞いて、控えているのかもしれませんね」  身体から視点が遊離する感覚に寝るしかなかった。以前銀灰を招いたときに置き放しの布団を見て、桜に指差す。あれを使うといい。それだけ言え、目蓋を開くのも厄介になった。口だけが動いた。何か喋っていなければならない強迫観念に襲われる。彼をひとりにしたくなかった。 「桜」  寝ていないのだ、どこにも行くなとばかりに呼ぶ。 「寝られたほうがいいですって」 「寝たくないのだ。桜。少し話がしたい」 「御主人」  律するような色を帯びていた。看病人というより、使用人というより、保護者のような威風だった。極彩は目を閉じてもまだ揺れる感覚があるにもかかわらず首を振る。言うこと、言わないこと、言わなくていいこと、言っても何の足しにもならないことの判断がつかず、思いつくままに口が回った。 「御主人は前におっしゃりましたね。僕の素直なところが良いってそんなようなことを」 「言った。でも忘れてくれて構わないよ。不変というわけにもいかないんだ、何もかも。何もかもだ。いつか変わるんだ。お前も、わたしも。誰もかれも」  忘れませんよ。桜は呟いた。 「御主人が素直になるのは、熱に浮かされてですか。後悔しないでくださいよ」 「桜。わたしは本気なんだ。本気なんだよ。お前は変わって、わたしは焦るんだ」 「変わったわけじゃないです。成長しただけなんですよ。御主人がそうさせてくれたんです。その機会を与えてくだすったんですよ」  浮遊感を拒絶しさらに首を振る。体温を測る仕草に似た手付きで額を押さえられた。 「頭を振っちゃいけません」  極彩は呻いた。腕が痺れる。頭の中の違和感と身体中の熱が判断力を奪っていく。 「桜。わたしはお前の御主人なんかじゃない。御主人なんかじゃないんだよ。わたしは口先ばかりで何も成せない卑劣な人間なんだ。自分の事すらなにひとつ決められない。わたしはお前の御主人なんかじゃない。不義の野良犬と呼んでくれ…臆病な野良(どら)猫と…教育も素養もない野獣だと罵ってくれ…」 「病人の譫言(うわごと)なんて聞きませんよ。病人に言論の責任を求められるほどの立場にもありません。どこか痛いか、腹が減ったか以外は全て聞き流しますからね。御主人…下手な文句ばかりの病人より(たち)が悪いことを自覚してください」  浅い吐息を繰り返す極彩の髪や枕や掛け布団を流しながら桜は困ったように笑った。
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