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第106話

――どっか、行こうか  弾かれたように両手が首から離れた。柔らかい皮膚の下の固さがまだ指に残っている。薄紅色の痕が真っ白い首に浮かんでいた。両手を握り締める。口頭隆起を押し込もうとしていた親指は他の指を押さえ込み、震えた。苦しがりながら呼吸をする姿に驚いて極彩は逃げ出した。階段を蹴るように駆け上がる。身体は芯から冷えているくせ背には汗。城内の明るさに問い詰められているような空気を感じた。平静を装い、警備兵のいない廊下へ移り、人通りの少ない通路へ入り込む。  憎い人と同じ血?恩人とだて同じ血だろうに。  薄暗い中での悪事が見透かされてしまいそうだった。殺してしまっていたら。白く震える冷たい拳を開く。頭を抱えた。荒々しい手櫛が髪を引っ張る。  あ~あ、何もしないで死ぬより、一矢報いれると思ったのに?  長い廊下を歩く。淡々と職務に当たる下回りたちにすらも疑り深くなっていた。睨むような視線を送っていたらしく苦笑しながら会釈をされすれ違う。何かを知られているのではないか。糾弾されるのではないか。寒くなった。背筋が凍る。だが汗はまだ引いていない。髪を毟るように引っ張り、だが両手が感触を思い出すことに恐怖した。曲がり角で何者かと衝突する。鼓動が止まったかと思った。 「ご、御主人!大丈夫ですか!すみません…!」  間の抜けた声で大慌てで叫ぶ若い男は桜だ。来賓を示す帯状の飾紐を身に着けている。 「桜…」 「ごめんなさい。前は見てたんですけど…お怪我はありませんか」  夏の終わりに会ったきりだった。荒れた肌も相変わらずだった。 「何ともない。風邪にはなってないか」 「はい!流行ってますもんね。御主人も風邪にはなっていませんか。空咳・悪寒・発熱などは?」  情けなかった眼差しが鋭くなり、出会った頃と比べ変わっていく姿にわずかな苦々しい感じが胸に残った。 「ない。桜も気を付けて」 「銀灰さんがお世話になったと話していました。こちらで会ったらよろしく言っておいてほしいと」 「道に迷っていたところを送ってもらった。世話になったのはわたしだ。でもありがとう、桜。これから何かあるのかな」  桜は何をしに来たのか忘れたらしく一瞬だけ呆けたが数秒後には口を開いた。 「あ、これから縹様のもとへ伺うのです」 「そうか。叔父上のこと、よろしく頼むよ」 「はい!」  極彩は桜の脇を抜けていく。離れ家へ上がると天藍がいた。突然の来訪に思考も呼吸も肉体も停止した。揖礼も挨拶も忘れた。直立不動で天藍が座る見慣れた室内を巡る温風に包まれる。 「おはよう、彩ちゃん」  何かの術のように、緊縛されたような感覚から放たれた。麗らかな瞳が極彩に向けられる。どれくらい経ったのかも分からない。ただそれまでは一度も天藍は極彩のほうを見ようとはしなかった。 「お待たせして申し訳ございません」 「やっとオレに対する接し方が分かったみたいだね」  揖礼をしなかったことへの嫌味とすら受け取れた。極彩は膝を着こうとしたが声ばかりは朗らかに笑った。いいから、ここ、座って。天藍は急かし、対面の床を叩いた。 「何で来たと思う?」  天藍は極彩が座ると姿勢を崩した。考えるように俯いて、見上げるように盗み見る。澄んだ双眸が極彩の目と合った。柔和な笑みが深まる。 「…紫暗のことでしょうか。何かしでかしましたか」  二公子は首を振る。 「いいや?若手にしては優秀なくらいだよ。本当に仲が良いんだね。羨ましいな。それはいいとして。正解はオレの仕事が一段落したからでした」  ひとり盛り上がり天藍は手拍(てはた)きした。 「まだ何か疑っているね」 「いいえ…」  緊張に敏く気付き挑発するような、だが気遣うような微笑を浮かべ細流(せせらぎ)の聞こえてきそうな瞳を眇める。 「でもそれで正解。用は他にある」 「はい…?」  困惑を態度に出す。二公子は極彩に構わずうんうんと幾度か頷きひとり納得していた。 「ここからは少し真面目な話」  内心がそのまま表れ極彩は座したまま後退しそうになった。三公子のことか。だが違ったら。下手なことを言って墓穴を掘るわけにはいかない。天藍は極彩を愉快げに観察しているばかりで「真面目な話」を始めようとする気配はない。 「身構えるね。ちょっと傷付くな。最近風邪が流行ってるけど、彩ちゃんは何ともない?」 「はい」 「もう城中咳ばっか。熱で倒れちゃってる人もいてね。大変だよ。何ともないならいいんだけど、さ」  雑談に逸らされ、極彩もまた本題に戻そうという気は起きなかった。泳がされるだけ泳ぐことにした。 「新しい世話係とはどう」 「良好です」 「即答か。じゃあ紫暗ちゃんはオレのところでまだまだ働いてもらおうかな…と」  射殺さんばかりの眼差しから目を逸らす。美しくはあったが同時に得体の知れない気味の悪さまでもがこの青年からは漂っていた。大きな蜘蛛や人を恐れない蛇を見出してしまう。生血を見ながら愉悦を湛えていた顔を見てから。 「叔父とはどうなの。叔父さん汚いあっち行って!…なんてことはないと思うけど」 「良好です」 「最近訪ねても居ないのに?」 「流行病を持ち込む(おそれ)がございますので」  明朗な口元は意地悪く歪んだ。 「なるほど、君は足忠実(あしまめ)だし、賢明かもね。オレも少し寂しいくらいだけど、その自由さ奔放さが君の魅力を引き立てるよ」 「お褒めの言葉をいただき、たいへん光栄でございます」   深々と頭を下げると、「別に褒めたわけじゃないよ、本当にそう思うからね」と付け加えられる。本題はこの話題の延長にあるのかも知れない。ならばやはり急くよりは泳いでいるほうがいいだろう。ゆっくりと面を上げると天藍は極彩を凝視し、くつくつ笑いはじめた。 「群青とは?」 「群青殿…とは、特にどうということもございません」  一時的に笑いが治まったが返答の直後にまた天藍は発作のように笑った。 「特にどうということもない男と君は大きな祭りに行くの?浴衣まで着て?じゃあオレにも可能性あったかな」 「誘ってくださっていたならば、こちらとしましてもお断りする理由がございません」  二公子であるなら、その立場の前に平伏し紫暗の先約も破っていただろう。おそらく。終わったからこそ言えることだ。 「それはそれで嫌だな。オレが二公子だから、みたいだね?」  柔らかく眉間に皺を寄せ、唇を尖らせる。極彩は黙り込む。肯定したようなものだった。 「まぁいいさ。君だって年頃の女の子だもんね。群青くらい小奇麗で清廉な男と祭りのひとつやふたつ、大きな意味は……勿論無いだろ?」 「論なく」  大きく吊り上がる口角は満足を告げている。 「君の答えを聞いて安心したよ。そろそろ群青も身を固める時期だと思っていてね。まだ若いんだし早いかもなって思ったけど、仕事に生きたいなら尚更早いほうがいい。なんだ、そうか。そういうことなら、決まったよ。まぁ本人の意向次第だけどオレが勧めれば断らないさ」 「温かいご家庭をお築きになられますようお祈りいたしますと共に、心よりお慶び申し上げますとお伝えください」  仕事熱心な若者だ。細君は苦労するだろう。妻子を持てば考えが変わるかも知れない。鼻腔を清涼感で焼いていく薄荷の香りを覚える。幻だ。組木細工を差し出して笑う姿が一瞬脳裏を掠めていった。
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