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第104話

 案内された事務所は血にまみれていた。極彩は直立し息を呑む。口笛が背後から上がった。こうなることを見越していたかのような態度だった。極彩を追い越し部屋へと踏み入る。血の池に靴底が汚れることも厭わない。室内には部屋の隅で腹を刺され、天井の一点を見つめている“競売品”がいた。陸に放られた魚のようだった。対面の壁に喉を掻き切られた男がいた。進行役の男は震え、極彩が入った扉の脇に尻餅をついて震えている。顔を血飛沫で汚し茫然としている。すぐ傍に赤く染まった小刀が転がっていた。 「やっぱり、どぶネズミだったんですね」  天井や床まで真っ赤に染めている喉を切られた男は微動だにしなかったが、反対側に横たわる金で買った婿候補はまだ生きていた。翡翠は近寄っていくと彼の顔面目の前で屈む。死んだ魚のような“落札品”は苦しげに首を持ち上げる。 「誰か呼ぼうたってそうはいきませんよ」  誰に言ったのか分からなかった。致命的な負傷者にも陰険な調子を崩さない胡散臭い同行人は血だらけの痙攣した手から何かを引き手繰(たく)る。 「ここは“そういう”場所じゃないんですから」  極彩に言っているらしかった。彼女はびっくりしてやっと視線を外すことが出来た。他の者たちはいない。落札された“競売品”たちの姿もなかった。 「おめでとう。きっと二階級特別昇進しますよ。でなきゃ割りに合いません」  明るい茶髪は力なく床に落ちた。青白い口唇が震えている。極彩は近付こうとした。だが翡翠によって制される。 「無駄ですよ。あとは死ぬだけです」 「でもまだ生きてる!」  精神の平衡を失ったように極彩は喚いた。翡翠の肩を鷲掴むと押し退け、歯を鳴らす若者に襟巻と上着を掛ける。見慣れた衣類が真っ赤に沁みていく。触れた指先が小さく動く。眉間の傷が疼いた。触るなとばかりに翡翠の腕が極彩の腹に回された。血の海の中に3つ束ねられた小さな筒状の物が転がっている。端に紐が出ていた。 「貴男(あなた)はわたしと墓場に行く」  翡翠を押し退け、瀕死の若者へ手を伸ばす。翡翠が舌打ちをして両腕で極彩を抱き留めながら若者への接触を妨げる。半狂乱になりながら若者に訴えた。 「まだ貴女の婿ではありませんよ」 「婿です!わたしと結婚して。頷いて!早く!」  首を動かすことも難しいくらいだった。 「本当にいいんですか。死なれたら無駄金ですよ」 「いいから…!早く彼を…」  心臓が大きく打っている。夢の中にすら思えた。帰還の宴で初めて人を刺した感触が蘇り、背筋が凍る。何が起きたのだ。翡翠は口を閉ざし極彩を放した。 「これなら色街の薬物中毒(やくちゅう)捕らえたほうがまだよかったですよ」  翡翠は愚痴を溢して“競売品”の手当をはじめる。極彩はまだ血の(さざなみ)のきていない床へ崩れ落ちる。呼吸を急いた。無痛の穴が空いて通り抜けていっている感じだった。 「すぐに出て行くことですよ。謀られましたね」  極彩の肩を叩いたが視線は唖然としている進行役だった者のほうを向いていた。応急処置が終わったらしい負傷者を軽々と抱え事務所から出て行く。上着と襟巻で包まれ、長身の翡翠の後姿から人形のように力を失った膝下が見えた。 「何が…あったんですか…」  骨を軋ませるように進行役の男へ首を向け、そして問う。  と、突然暴れて……い、いきなりっ…  落札した額より少し多く区切られた小切手を叩き付け、極彩は翡翠の後を追う。事務所近くの階段から上がった場所は漬物屋だった。素行不良の印象を受ける若者が店番をしていた。地下から出てきた極彩を見て何か言い掛けていたが彼女はそのことに気付かず、店を飛び出した。蒸れた色街を歩く。遠く後方で騒音がした。  胡散臭い宗教家の姿は結局見つからなかった。微かな苦味を帯びた甘い香りに噎せ返りそうになりながら熱気の中を歩いた。一軒一軒を確認するが医者がありそうには思えなかった。通行人たちは忙しなく、今までとは別の騒がしさがあった。倦怠感を抱きながら、そのまま不言通りへと出てしまった。あの者が死んでしまったら。血の海に浮かぶ髪がふと過去のものと重なった。  誰のせいでもないよ。だって何もしてないでしょ。  関わってしまった。腹から血を流して横たわる姿が焼き付いている。不言通りまで来ると色街の炙るような熱が下がり、涼しい風が吹いた。人波の生温い空気を裂いていく。上着も襟巻もないため肌寒かった。明るい飲食店街を北上していく。何かが重く圧し掛かっているような気分の優れなさだった、上着を掛けた際に触れてしまった指が赤茶色に染まっている。再び襲われる息苦しさに立っていられなくなり、飲食店の脇の小道に座り込んだ。料理の匂いが気分の悪さを助長する。だが牛車の馭者とさえ話したくなく、藤黄に申し訳なさも覚えながら少しの間休んでいた。婿を探しに来たはずだ。だが死者を出してしまった。通行人が声をかける。飲酒や過食による胃もたれだと思われたらしく胃薬や香草入りの飴を渡された。縹に正直に言う気になった。婿は見つかりそうにないと。だが叔父の心配事であるなら、消したい。せめてひとつ。縹に結婚のことを言われたときの表情や声を思い出すと胸が引き攣った。どれだけ寄り掛かる気だ。折れそうなほど痩せ細った病人に。全て背負い頭を下げたあの者に。  城に着く頃には夜になっていた。雄黄が陽気に迎えたが薄着に驚き、そして血で汚れた手に跳ねた。 「わたしのじゃないから」  雄黄に下がるように言い、手を洗うと離れ家で(うずくま)る。暖房が音を立てる。爪先が冷えていた。翡翠さん。小さく呼ぶが応答はない。闇競りに手を出してしまった。目にしてきたものは健全な方法とは思えなかった。法に触れているようでもあった。分かっていながら人を買ってしまった。まったく考えたこともないようば場所で知らずにいた者たちが惨たらしく殺され、使われ、消費されていく。洗朱地区もそうだ。四季国だってそうだった。考えずとも見せられたではないか。消費する側に回ってしまった。 引戸が叩かれる。声を出すのが億劫で返事もしなかった。だがもう一度叩かれる。 「極彩殿。藤黄です」 「入ってください」  相手に聞こえるか否かというほどの声量だったが届いているらしかった。年齢的にも肉体の衰えがはじまる頃合いだというのにそれを一切感じさせなかった。 「牛車で帰ってくるように申し付けたはずです」  思い出し、渡された車賃を返そうとしたが叱られる。 「催促に来たわけではござらぬ」  鬱屈した様子の極彩に藤黄の険しい表情がいくらか和らいだ。だが訝しみを深めている。 「弁解くらいはしたらいかがです」 「いいえ…何もいうことはないです」 「我輩はきちんと申すべきでした。今、洗朱付近の不言区画で夜間に妙な人影が徘徊しているという報告が入っておりまする。色街では依存性の高い薬物が出回っておりますし、郊外では身寄りの無さそうな者を攫う輩も出没しております。夜が長くなりました。夏よりも事件は少なくはなりましたが、気を付けるに越したことはありませぬ。若のためでもありますが、何より極彩殿。貴嬢の御身(おんみ)も毎度毎回と腐れ縁の如く顔を合せる相手として多少心配なのです」  溜息を吐いて藤黄は捲し立てる。しかし口調は優しかった。鮮やかな霓虹灯(げいこうとう)や一夜の夢を目的にした人々に焼かれた空気から一気に冷え込み、人工的な生温さに包容された身にはまた別の寒さを感じた。
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