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第103話

 日が落ちた頃に庵を出た。夕焼けが淡香寺に色濃い影絵を作っている。青みをのこした空がぼかされていった。翡翠は極彩に透け感のある薄布を被せた。目が粗く視界はある程度利いている。 「顔を覚えられると厄介でしょう。前が見づらいですか」  肩を抱き寄せられる。薄布の繊維でわずかに視界が黒ずみ、夕陽や雑木林の影や翡翠の輪郭は捉えられるものの、薄暗い場所となると境界が曖昧になっていた。 「すみません」 「いいえ?」  淡香寺の長く急な階段を下り、さらに住宅地の片隅にある階段を下りた。鮮やかな照明器具が少しずつ灯っている。しかしまだ色街は忙しい夜の準備といったところだった。大通りに出て、それから裏道へ入る。軒下に小さな水槽が飾られた店の暖簾を翡翠は潜っていった。中には所狭しと水槽が置かれていた。飼育や観賞用の魚を売る店らしかった。魚たちは水面を小さな体に大きな背鰭や尾鰭を持ち、大きく揺蕩わせ泳いでいた。 「こっちです」  小さな空間であったが水槽やそれらを支える棚に仕切られ通路が造られていた。視界から消えた翡翠が低く震動している水槽の重ねられた棚の影から姿を現す。手招きされ後を急いだ。店主と思しき無気力な男が奥で勘定台に頬杖をついていた。翡翠と極彩を疑わしげな視線で目を追い、勘定台を通り過ぎても何も言わなかった。無関係な者が立ち入るべきでない場所だったが翡翠は無遠慮に進み、極彩は会釈をしたが頬杖をついた男は目を逸らすだけだった。 「ここは…?」 「観賞魚専門店ですよ、見ての通り。表の顔は」  床にある扉を開けながら意味深長なことを言われる。床収納庫のようだったがそれにしては扉が大きかった。 「表の顔?」 「誰にでもあるでしょう?勿論ワタクシにも、貴女にも、貴女の“カレ”にも」  返答のようで独り言のようでもあった。問い詰めたところで思わせぶりなこと言ってはぐらかすだけだろう。開かれた扉の先には真っ暗な階段があった。細く太い筒状の照明器具を取り出し翡翠は耳に挿す。何の躊躇いもなく階段を下りていった。明るいうちに極彩も共に下りた。弱い光では足元しか照らされず、地下らしきこの部屋が何なのかは見えなかった。翡翠の行く先には暗闇に白い線で長方形を描いたように光の漏れた扉がある。 「何があるんです」 「闇競りですね」 「闇競り?」  慣れた様子で扉を開き、極彩も光の中へ進んだ。観賞魚専門店の小さな建物の地下にあるとは思えないほどの広さがあり、中心に向かうほど段差によって低くなっている。円形劇場によく似ていた。 「人身売買です。見たことは?」 「あるわけないです」  段差は全て、座席になっていた。翡翠は近くの席に座った。円形の舞台を大きく見下ろせる位置だった。 「その“闇競り”で人を買え、というわけですか」 「貴女の負い目が中和されたら幸いですよ。大概は奴隷同然に死ぬまで働かされるんですからね」  翡翠は長くしなやかな脚を組み、大きく姿勢を崩した。また眠るつもりらしく背凭れに身を沈めている。座るように促される。 「…分かりました」  隣に座ると極彩の席の背凭れに腕を回される。肩を抱かれているような、けれど身を支えられていた時とは違う高圧的な窮屈さがあった。 「良いお返事です。ある程度、相手を拘束しておかなければ。気持ちでね?」  目を閉じている隣席の涼しい顔を一瞥する。対面側の席にもぽつりぽつりと人々が見えた。仮面を付けたり、一部顔を隠したりしていた。色街を初めて歩いた時の息苦しさに襲われ、身体から力が抜けなかった。劇場らしき空間は暗くなり、薄暗い明かりだけが点いていた。その照明に炙られているような居心地の悪さがある。喉が渇き、腹の奥が張る。肩が凝る感じがあった。中心部の円形舞台だけに強い照明が当てられ、そのうちに進行役が現れた。拡声器を使っているらしく喧しい前口上が頭の中を殴打する。 「若くて活きのいい男が出品されていると思いますよ。どうですか。乞食の出ですが家族はおりませんから、後腐れもありません」  進行役の耳障りな声量が翡翠の声によって遠く感じられた。条件を訊いたのはそのためか。極彩は眉根を寄せた。 「ここにはよく顔を出すんですか」 「いいえ?特に用もありませんからね」  背凭れに身を預ける男の姿は酷く疲れていた。 「では何故、そんなことを、」 「乞食と浮浪者が街から消えるんですよ。退廃地区も消えてしまった。不思議な国だぁ、風月国は?」  両隣に広げた腕で仰々しく肩を竦める。 「後ろ盾も金も土地も無いとはそういうことですよ」  進行役の声が(ようや)く止んだ。長たらしい話などろくに聞いていなかった。闇競りが始まるらしかった。 「いいですか、まずどんな無信心な人でも、金というある種の宗教的概念からは脱け出せないんですよ。お忘れなく。人は金で狂いますが、糞みたいな人生を狂わせるには金が要りますからね」  言い聞かせているらしかったが、態度は投げやりで至極どうでもいいといったふうだ。 「ただ、全てというわけにはいきませんから」  でなければ今すぐ闇競りの会場から出て行く。金で全て決着できるのなら。ここに居る必要が無い。あの治りかけているのかも怪しい末期的症状をみせる身内をどうにかできたはずだ。この国を捨てられたはずだ。決別できたはずだ。過去と。 「騙し騙しやっていきますか。やっていけますか?」 「はい」 「きっと貴女の叔父御は気付いても、気付かないフリをするでしょうね。貴女がそうしたように」  まだ何か喋っている進行役の言葉はもうまったく耳に届かなかった。 「嗤いますか」 「とんでもない。背負えるならいいんです。背負えた気になれるなら。貴女の覚悟を知りたかったんです」  黒い布に覆われた“競売品”が円形の舞台へ引き摺られるのとそう大差なく運ばれてくる。卵を産む老翁、甲羅を持った(おうな)、両性具有の嬰児、数年間身籠っている中年女、退化した片翼を持つ少年。乞食の若者や孤児も何人かいた。“競売品”は様々だった。目の前で落札されていく。両性具有の嬰児は特に値段が吊り上っていた。 「あれは大方、見世物小屋への宣伝ですね。あの赤ん坊が本物かは知りませんが、大概仕込まれた偽物ですよ」  翡翠は硬直している極彩にそう耳打ちした。愉快そうだ。 「どうしますか。助けますか。貴女にはその意志を持ち、実際そうできるだけの能が今はある、どうします?あの赤ん坊の額だって覆せる。今から異議申し立てでもしたらいかがです。今日の闇競りごと買収できますよ」 「何も出来ません。意思ひとつ通せず、婿を買うのに必死な、哀れな女がひとりいるだけです」  「本日の目玉商品」として進行役が声を張り上げた。翡翠の言っていた若い乞食の男が紹介されている。明るい茶髪が遠目からも分かった。首輪を繋がれ、麻袋のような襤褸布を身に纏っている。 「彼、良くないですか。見目もいいし何より若い。それなりの格好をさせれば隣を歩いていても遜色ないですし、貴女にお似合いです。それに、いくらでも過去を偽装できます」  卑しい笑みを浮かべる男を睨み、極彩は手を上げた。提示されていた値段よりも大きな額を叫ぶ。他の者が額を上げた。 「あそこは女体盛り食堂です。男体盛りでも始めるんですかね」 さらにその額を吊り上げる。他の者が額を上げた。 「あれは獣姦処ですね。雄雌男女問わず、人と獣の交接を見て愉しむ店です」 躊躇いもなく額を上げる。近いが極彩の言った額よりも高い値段が示される。 「あそこの家は個人です。裏では虎飼いの金糸雀(かなりあ)なんて呼ばれていますけど。大きな獣を飼ってますから。人の味でも覚えたんでしょうね。金がかかることです」  値段を大幅に上げた。挙げた手が力無く落ちた。木槌が叩かれる。両性具有の嬰児よりも早くに決着した。極彩が落札した。肩を落とす女の姿を見て男が鼻で嗤う。 「安いですねぇ」  人を買ってしまった。隣で笑いを堪えきれず小気味良い声を漏らす監視役へ顔を向けられなかった。
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