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第102話

 淡香寺前の長い階段の前で降りる。高低差を利用した花壇の枯れた草木は渋く佇んでいた。階段を上がっている途中に背後で気配を感じ、立ち止まった。背中と後頭部に柔らかいものが当たる。 「急に立ち止まらないでくださいよ」  影が彼女を通り越していった。鬱金色のローブでも、暗い色調の軽装でもなかった。黒く長い丈のそれは河教(せんきょう)の高い位のものが身に着けられる戒衣(かいえ)だった。 「来ていたんですか」  ふと見上げた口元に傷がある。 「婿探しでしょう。付き合いますよ。まさかこの時間帯にここにいらっしゃるとは思いませんでしたが」 「…すみません」  謝ると片眉が上がる。額にも痣があった。 「いいですよ、こっちのほうがワタクシも楽ですし」  翡翠は極彩を置いて階段を上がっていく。 「変態好色館は身請け制度がないんですよ。あそこの人々は…慰み者にされてしまいますからね。見世物屋だとかもう奴隷商に転売だなんてこともありますよ。人間はなけなしの優越感に目を曇らせますからね……なけなしの。――だからやめたのだと聞いています」  階段を登りきり、平べったい雲が浮かぶ空が開かれる。 「まぁ、きちんとアイシテくれている顧客となればまた個別対応だと思いますけどねぇ?ただ安くはありませんよ。おそらく他のところよりも。そういう事情ですから」  翡翠は淡香寺の本尊安置所(ほんどう)に続く石畳ではなく砂利の敷き詰められた脇へと逸れていった。 「連れて行きたいところがあります。ただ…まだ随分と明るいですからねぇ。それまで少し付き合っていただきますよ」  離れていく背を追う。雑木林に今にも呑まれそうな庵があった。 「何か手伝うんですか」 「寝ます」 「はい?」  宗教家は振り向いて極彩の額を柔らかく指で突ついた。 「寝ます。貴女は傍にいてください?」  翡翠はまた極彩を置いて庵へ入っていく。突然寝ると言われても訳が分からずに極彩も開け放されたままの庵へ入る。 「お邪魔します」  城の離れ家と造りはよく似ていた。だが広さは半分ほどで家財は必要最低限のものしかなかった。翡翠は腕を組むと畳の上に寝転ぶ。大きく息を吐き力を抜く様子は疲労が窺える。 「寝てないんですか」 「どこかの跳ねっ返りが妙な真似をしないかと心配で、おかげで3日徹夜(さんてつ)です。(いた)わってください」  小難しい顔で目を閉じ、横向きで眠りに就く。 「おやすみなさい」 「おやすみなさいじゃありません。ここにいることですよ、いいですね」  傍に座ると芋虫のように畳を這い、極彩の膝に頭部を預ける。 「河始季?」 「お転婆娘の世話はまったく疲れますよ」  寝息が聞こえた。極彩は襟巻を広げ、無防備な監視役に掛ける。庵は日当たりがよかった。緑を帯びた明かりが入り込んでいる。だが少し肌寒い。膝に乗る頭は眼鏡を掛けたままだった。起こさないように注意して鼻梁に掛かった金属を摘まむ。ゆっくりと両耳から引き抜き、脇に置く。くすぐったかったのか身動いだ。普段は陰険な物言いと嫌味な喋り方をしているが黙っていると温厚な印象がある。寝顔はその中間といったところで気難しさがよく表れていた。 「人の顔をじろじろ見るのは感心しませんね」  目を瞑ったまま男は口を開く。 「他にすることがなかったもので」  率直に言えば翡翠は上体を起こした。落ちた襟巻を拾い、整えると返した。 「どういう人がいいんです」 「え?」 「婿探しですよ。条件は」  面倒そうに眼鏡を拾い掛け直す。 「後腐れがなければそれで」 「それだけ?他にあるでしょう」  壁に寄ると背を預ける。両腕を組み、力を抜いている。機嫌が悪そうだった。 「利用して、相手を束縛してしまいます。多くは望みません。縹さんが安心してくださる相手なら、それで」 「望まない時期の、特に望んでもいない相手との結婚でも……あまり自棄(すてばち)にならないことです。失敗してほしくない。まぁこのご時世、切った張ったで結婚離婚を繰り返すという手もありますけど、貴女はそうもいかないんでしょう」  先達の説教だ。まるで何か結婚を失敗したことがあるような響きを持っている。 「河始季は、」  組んでいた両手を広げ肩を竦める衣擦れの音に言葉を失う。 「人生の墓場ですよ、結婚なんて。忍耐と寛容を求められるんです、勘弁してほしいですね」 「そうですか。教訓にします」  それから無言で翡翠は極彩を観察していた。極彩もまた翡翠を眺める。何を言われるのだろうと待っていた。 「彼がよかった?」 「彼?」 「いいえ」  誰を指しているのか問い返すと顔ごと逸らされた。 「祭りで一緒だったあの男とはあの後会っていないんですか。一度も?」  監視役の陰険さの失せた表情を極彩はまじまじと見ていた、すると開き直ったように鼻を鳴らして嘲笑う。 「ワタクシも四六時中貴女のお守りをしていられるわけではありませんよ。どこかの誰かさんと違ってやることがいっぱいあるんです」 「…会っていません。会う用もこれといってありませんでしたから」 「冷たい方ですね」 「仕事の邪魔はできません」  横目で一瞥される。 「貴女ではなく」  口の端を吊り上げながら翡翠は首を緩やかに振った。 「貴女には、少し年下の素直で明るい子が似合うのかもしれませんねぇ」 「そうですか?けれど、縁がありません」 「今後の参考にするといいでしょう。責任は…負いますよ」  ふざけた調子で言って愉快げに笑っている。 「今後はありませんよ。これきりです」  翡翠は少し黙ってから、茶でも淹れますと言って立ち上がった。 「河始季」 「なんです?」  茶と菓子を出され、落ち着いた頃に話しかける。寝ていた時以外に隙がない。 「ありがとうございます。婿探しまで手伝っていただいて」 「これは貴女だけの問題ではありませんからね。たとえば暴力的な旦那なんて選んでみてください?ワタクシはそんな胸糞の悪いものを嫌でも見せられるわけです。これはひとつの当てこすりですよ。ワタクシに対する嫌がらせです」  茶を啜りながらあまり関心を示さず監視役はそう話す。 「いつまで続くんですか。二重の生活は」  座卓を見つめていると視界の端に茶請の皿が入ってくる。菓子を勧められ、ひとつ手に取った。 「雇い主のみぞ知るんじゃないですか。――か、ワタクシの寿退職か…」 「そういうお相手がいらっしゃるんですね」 「宗教家といえどワタクシも人間ですから。異性と遊びたくなることだって、たまにはあります。それが場合によっては…墓場に続く道でもね」  極彩の煎餅を齧る音がした。結婚をすれば人生の楽しみを終え、死同然となり、後は肉体的な死を待つだけの抜け殻と化す。翡翠はそう言った。悲観しながらもどこか期待を寄せている響きを持って。 「何も異性と添い遂げ、子を成し次代を繋ごうとするだけが能ではありませんよ、今は。特に貴女の立場でいうなら。けれど身を守るために必要だというならそれも道でしょうね。ただ忘れてはいけないのは、人間も動物ということです。子を成したいと思うことがある。見境なく(サカ)る犬猫たちと結局は同じということです。理性だの知識だの文化だの制度だのに見え隠れしているだけで。貴女が形だけを求めても変わっていくこともあります」 「それは、」 「俺の言葉ではないです」  翡翠もばりばりと煎餅の乾いた音を立てた。
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