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第101話

――明日、『変態好色館』前で待ってますよ。  枕元に置いていた団栗(どんぐり)が消えている。 「翡翠さん…?」 「おはようございます!」  ちょうどよく入ってきた雄黄の元気な朝の挨拶に驚いた。 「おはよう。元気がいいな」 「はい!」  清々しい様子は朝から何かいいことがあったようだった。 「朝餉はもう食べたかな」 「さっきいただきました。極彩様はどうなさいます?お持ちしましょうか」 「いや、いい。少し空ける」  布団を片付け、適当に朝の支度を済ませると厨房に行った。忙しなく皆働いていた。職務の妨げにならないよう調理場の隅を借りていると水場の脇にいた小柄な下回りが振り向いた。 「極彩様」  円い目が大きくなり、おはようございますと言って可憐に破顔した。紫暗だ。 「いらっしゃると思ってました。もう出来ております。どうぞ」  漆塗りに模様が散りばめられた椀を3つ、盆に乗せて渡される。糊状になっている米と具の抜かれた味噌汁、そして擂り潰された林檎と桃。変わった様子のない紫暗と渡されたそれらを見る。 「ありがとう」 「これか朝餉ですね」  天藍とは上手くやれているのだろうか。訊いたところで答えがどうであろうと何かを変えられるわけでもなかった。 「いってらっしゃいませ」  紫暗に何か雑談めいたことも言えず極彩は頷くだけ頷き、自身の膳に受け取った椀を乗せ地下牢へと運ぶ。天気はよかった。気温も高い。だが地下牢は普段より明るくはあったが肌寒かった。 「紅」  木霊する。紅はまだ寝ていた。しかし呼ばれたことに反応し、極彩の編んだ肩掛が小さな背から滑り落ちる。 「朝ごはん、食べようか」  茣蓙(ござ)の上に置いた箱を台にし、膳から3つの椀を下ろした。左は利き手ではなかったすでに慣れたらしく器用に匙を扱っていた。匙は口内を傷付けないように丸みを帯びた木製を選んでいる。 「紫暗が擂ってくれたんだよ」  寒さが空腹を増させるのか、紅はよく食べた。前から痩せていたため、極彩にとっては喜ばしい傾向だった。 「わたしのも食べる?」  歯はあるが舌が無いため誤嚥が怖かったが柔らかく掻き混ぜられた玉子焼きならば大丈夫だろうと皿を差し出す。炒めるような料理法で乾酪(かんらく)を絡めてあるため細かくなっているが、飲み込みづらいほどではない。 「ここのご飯は美味しい?」 可愛らしい顔で紅は頷いた。 「ここに住む?…こんな狭いところじゃなくて、でも、この国で」  細かい玉子焼きを掬う手が止まる。大きな目で見上げられた。ただそれだけで、また食べはじめる。極彩も蜜柑の皮を剥き、房から取った実の薄皮も剥いた。紅が喜んで食べていく姿に笑みが浮かぶ。 「美味しい?」 小さな顎が縦に揺れる。味覚はあるのだろうか。舌は抜き取られているというのに。食事を終えると紅は極彩の手首を掴み掌を仰がせた。以前の険しさを失った小動物に似た目に用件を問う。遊びたいのかと思った。掌に傷だらけの固く細い指が這う。 アノヒト ドコイッタ  文字だった。極彩の手に紅の意思がのっていく。 「あの人?紫暗のこと?紫暗は…もうわたしの世話係じゃないから」 少年と大差ない中年の、けれど少年は俯いたまま顔を上げない。 「ごめんね。わたしから言っておくから」  赤茶色の髪を撫で梳いた。寝癖がついている。紅は項垂れ、明らかに落胆していた。 「ごめんね。でも紅のこと、もっと教えてね」  そう言って諭すようにまた頭を撫で、食器を片付けた。紅は元気を失っていたが頷いた。心配ではあったが肉体的なものでもなさそうだったため、厨房に膳や食器を返し離れ家へと戻る。部屋の隅に放置された銀灰が使わなかった布団が目に入った。冬までにはどうにか紅を地下から出したい。気が滅入るほどに寒くなりそうだ。下手をうって天藍の反感を買うわけにはいかない。妙な取引を持ちかけられはしないだろうか。人質が2人もいる。屈してしまうだろう。おそらく膝を折ってしまう。首肯してしまう。不安は募った。だがあの男は、瀕死の師に向かって。怒りで身が焦がれる前に考えるのをやめた。それでも追ってくるのだ。迎え撃つつもりはない。 「極彩様!お戻りになったんですね」  布団を干しに外に出ていた雄黄が戻った。 「また少しここを空けるよ」 「はい。いってらっしゃいませです」 「あまり無理はしないように」 「はい」  細長い小箱の中身を確認し、わずかに気分が重くなる。大金が要る。大金が要るのだ。婿を買う。必要なのだ。まだ随分と早い時間帯だったが気が急いた。雄黄に後ろから襟巻を掛けられる。振り向くと幼い顔が悪戯っぽく笑った。やはりどこか機嫌がいい。 「寒いので、お風邪をひかないように」 「ありがとう」  雄黄は仕事に戻り、極彩は城門へと向かう。 「極彩殿。どちらに行かれる」  門をでたところで昨夜の口喧しい男に呼び止められる。名指しであれば知らぬ振りもできなかった。 「天気もいいことですし、散策を」 「供もお付けずにならず?」  藤黄の渋い顔を捉える。頬に傷を負っていた。普段の堅い装いではなくゆとりのある平服に黒衿のローブを羽織っている。嗅いだことのある軟膏の匂いが微かに漂った。 「あの後、何かあったんですね」 「不手際をやらかしましてな。我輩のことはいいのです。あまりおひとりで行動なさるな。世話係はどうなさいました」  藤黄は鋭い目元を眇めて問う。威嚇しているようだったが纏う空気は太々(ふてぶて)しい野良猫とそう変わらない。 「ひとりで構いません。何を危ぶまれているのか皆目見当がつきませんが、却って危ないのでは。それとも藤黄殿がご一緒しますか」  覇気や威圧感が服装や軟膏の匂いのせいか平生より失せていた。しかし眉間は元気そうだった。 「この有様では務めを果たせませぬ…しかし腕に覚えのある者たちは出払っておりますのでな…目的地までは牛車で行かれよ。帰りもですぞ。これで足りますな」  溜息を吐き、極彩の手に紙幣を硬貨を握らせる。 「藤黄殿」 「貴嬢のためではなく、若のためにですぞ。ゆえに安心なされよ」 「何か心配していたわけではありません」  藤黄は表情ひとつ変えず相変わらずの不承面で鼻を鳴らす。 「くれぐれも、気を付けることです」 「ありがとうございます。では、大切に使わせていただきます」  藤黄は睨むような眼差しを送り、城へと帰っていく。控えていた下回りがよろめいている巨体を支えていた。思っていたよりも傷は重いらしかった。小さくなっていく背中を暫く見ていた。牛車に乗って淡香寺に向かう。途中で弁柄地区付近の質屋に寄り、首飾りを換金した。華奢な首飾りが小切手数枚に変わった。四季国ではもう生きてゆけないのだろうか。皆々はまだどこかで生きているのだろうか。それならば。  忘れてほしい?  家族を作るから。家族が出来たから。  あの人たちは何だったの?  四季国のことはもう忘れなければならない気がした。真っ白な刃物が、華奢な金細工の装飾品が金になると思ってしまった時から。  忘れる必要なんて別になくない?昨日食べた物も忘れられないくせに。  また誰かが死んでしまったら。また誰か、仇でもない人が。乾いた唇に歯を立てる。冷たい風が髪を揺らした。空が高い。  もう無理だって、思っちゃったんだ?それでもいいんじゃない。でもわたしは、許さないから。
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