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第96話

「命に関わるようなことはございませぬ」  己の目にしていないだけに蘇芳は動揺していた。さらに威圧的な同僚、実質は上司がいるのだから仕方がない。 「虐待じみていましたけれど」  蘇芳は怖気づいているた。口を挟むと老いてもなお血気を失わない瞳が極彩へ移る。 「厳正な判断のもと臨機応変に規則通り行っておりまする」  で、ですが三公子は風邪を…召して…  藤黄の黙れと言わんばかりの空気に蘇芳は最後まで言えずに黙った。 「異議があると?若の下したことですぞ」  い、いいえ…  蘇芳は態度を隠しきれていなかった。素直に従うのか、貫き抗うのかの姿勢がはっきりしない。しかしここで必要なのは態度ではなく賛否でしかなかった。 「空咳を繰り返している者に対する罰としては多少の異存がございます」 「空咳?」  藤黄は訝り、蘇芳が例の空咳でございますときまりが悪く付け加えた。 「洗朱の呪い…?三公子が…?」 「では、わたしは戻ります」  わ、私も失礼させていただきます!  極彩は一礼して辛気臭い空間から去ることにした。後方から三公子想いな官吏も藤黄から逃げたいというのを隠しきれずに立ち去る様子が届いた。  なんで庇うの?  庇ってない  あのまま刑死しちゃえばいいんだよ  本当にそう思ってる?  傷が疼く。人通りの少ない廊下に入り直射日光の当たらない薄暗い中を進む。  殺したがってたじゃない  殺したいわけじゃない!  殺したがってるよ!ほら!両手が空しいでしょう?  両手を見た。先程の細い首を折りたがっている。あの真っ白い肌に鬱血を残したがっている。欲求を否定する。今にも地下牢に戻ろうとする爪先を御す。思うように歩けない。これで我慢してくれ、と両手を自らの首に回した。目の前に影が下りたち、俯いたまま押さえ込まれる。目潰しのように伸ばされた指で傷とは違う額の一点を突かれた。どこかで知った感覚だった。脳裏で藤の花の簪が揺れた。赤茶の髪が肩を滑り、そして柑橘にも似た甘い花の香りがした。鬱金(うっこん)色の刺繍の入ったローブが波打つ。 「楽になりましたかねぇ?」  まだ形は残していた洗朱でされた時と同じように、身体の奥から何か重苦しいものが抜けていくようだった。特徴的な嫌味な喋り方が存在を明確にする。 「捻くれているのも結構ですが、後先考えてください?」  それじゃあ仕事に戻りますね、と言った。眩い生地が翻る。ローブの下に戒衣(かいえ)を着ていた。監視役としてではなく宗教家としての仕事だ。河始季(せんしき)としての。誰か亡くなったのか。誰か、死にそうな者がいたか。寒気がする。一度膝を着いた。しかし冷たい床に接した瞬間、身体が飛ぶように跳ね起きた。床を蹴る。衝動のままに辿り着いた部屋を乱暴に開け放った。 「心臓に悪いね」  大した驚きもなさそうだった。車椅子には畳まれた膝掛が置かれ、杖は寝台の奥の部屋の角に立て掛けられている。部屋の主は机で書きものをしていた。 「縹さん…」  背凭れに背を預けず、姿勢よく机に面していた美しい顔が極彩を向いた。刺青のような痣が浮かび、血色は良くない。斑紋だらけの目。瞳は夜の猫の眼差しに似て薄らと濁っていた。 「どうしたの、ぼぅっとして」  しかし机上の紙には細かな字が並んでいる。視力は戻っている。枝のような指が万年筆を放す。 「いいえ…」 「正式に、君に家族ができる。嬉しいかな。互いに血の繋がりはないけれど」 「銀灰くんですか」  縹は微笑したまま首肯する。色素の薄い髪が揺れた。銀灰から手紙が来たのだと封だけをちらつかせた。悪いことをしてしまった。叔父は小さくそう呟いた。嬉しいかと訊いておきながら、本人は嬉しそうではなかった。だが微笑はすぐに戻る。 「縹さん…」 「紫暗嬢のことはすまなかったね。ボクもどうしようも出来なかった。…君の元・護衛のことも……会えたのだろう?」 「はい」  縹は机の抽斗から細長い箱を出した。 「返しておこう。また渡し直したらいい」  微風にすら崩されそうな痩身が椅子から立とうとする前に極彩は近寄った。差し出された細長い箱を受け取る。思い当たる節はない。返す、というからには以前は極彩自身の持ち物だっということになる。箱を見つめていると、「開けてみなさい」と縹は言った。厚紙でできた箱で朱色に金箔や紙の繊維が練り込まれている。開いてみると白濁に透けた紙にその物品は包まれていた。白い石の嵌め込まれた繊細な首飾りだった。一目見て、それから手に取ることもせずに蓋を閉めた。 「忘れました」 「そうかい。それならボクの言ったことも忘れられるかな」  端整な顔立ちに貼り付けられた、見透かした微笑が醜く映った。 「何の話だか」 「覚えていないのならそれがいい。でもそれは君が持っていて」  返されるつもりはないとばかりに縹は両手を背中に隠した。軽快な雰囲気が戻ってきている。だが見ていられなかった。細長い箱ばかりを見ていた。 「突然お邪魔してすみません」 「遠慮しないで。(すこぶ)る体調が良いんだ、最近」  机の上の道具を片付けはじめ、広い部屋なくせ座るところがないために苦笑しながら寝台を勧める。治っているのか。半身を覆う紋様は色濃いまま。残るのかも知れない。快方に向かっている。視力も取り戻しているようだった。自力で立ててもいた。意識もはっきりしていて咳もない。 「季節の変わり目です」 「油断しているわけでも、無理をしているわけでもないよ」  先回りし、事も無げに微笑する。目に見えて回復に向かっている。しかし血色は良くない。刺青じみた痣ばかりが色濃く、骨と皮だけになっているのは変わらない。苛々した。突沸に似ていた。人の気も知らない。心配をさせもしない。したらいい。誰に何を頼まれた気になったのだろう。 「病人は病人らしく寝ていてください」  突如として沸点に迫った感情を抑えるため、低い声を努めた。 「動けるときは動かないと」  死に損じた蝉に似ている。羽根をもがれた蝶に似ている。糸の巣に入った虫に似ている。 「君?」 「帰ります」  背を向ける。体調は確かに良さそうだ。 「お待ちなさい」  会うたび会うたび、最期かも知れないと迫られるのだ。欲しいのは家族ではない。況(ま)してや血の繋がりなど要らない。構わず逃げ去りたかった。だが叶わなかった。椅子が引かれる。 「何か言いたいことがあるようだけれど」 「ありません」 「言ったらいい。頼りない叔父だ。血の繋がりもない」  肩に肉感の失せた掌が乗せられ、掴まれた。拒否を許しながら。 「血の繋がりなんて…」 「人々が代々繋ぐことに躍起になった血縁を馬鹿には出来ないけれど、ボクは君の叔父でいられるかな」  肩の掌を掴んだら、砕き、握り潰してしまいそうだった。 「自分は、親を知りません。同胞(きょうだい)も。叔父叔母なんて尚更。でも縹さんしか家族として呼べた人はいないから」  傷が疼く。けれど痛いのは傷ではなかった。 「ごめんね」  謝罪が小さく降ってくる。この人は死ぬのだと確信した。そしてその自覚があることも。
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