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 耳の裏でまだ女の繊細な歌声が流れていたがふと途切れ、呼吸が楽になった。尾部や鰭の圧迫感も治まっていく。 「レーラ殿。レーラ殿」  レーラは陸に上げられたような心地になった。そこには重力があった。頬を雑に叩かれ、目蓋を開いた。 「ミーサ?」 「…こんなところで会うとは思ってなかったすよ」  ミーサは球形の障壁の中で小さく(うずくま)っていた。袖がわずかに焦げて、片手の甲が赤らんでいた。 「どうしたんだ…?どうしてこんなところに…」 「落ちたんすよ、海に。でも自分泳げないすから、このザマっす」  球は海を緩やかな速度で流れていた。 「怪我は…?しているな。その火傷は…俺のせいか」  焦げた袖にレーラは鰭を伸ばす。しかし彼女はそれを気味悪がるように後退し、患部を背へ隠す。 「いきなり手を出したのはこっちすからね。気にしないことすよ」 「…すまない」 「だから大丈夫す。軟膏でも塗っておけばすぐす」  火傷を負っていないほうの手をミーサはひらひらと振った。その指先は少しずつ水晶と化し、紋様が浮かんでいた。本人もそれに気付くと慌てて引っ込める。 「とりあず、しばらくちゃんと休むことすね。身体が休まらないとどうにもならないすから」 「ああ」  ミーサはまた膝を抱えて蹲ると黙ってしまった。 「あの者と話していた。ミーサの言っていた、婚約者を生贄にされた女性だ、おそらく」  俯いていた頭が上がる。髪を纏める黒いリボンも動く。 「シーレーンのルエンレイっすか」 レーラは頷いた。 「話は噛み合わなかったが…」  知らない名で呼ばれ続け、身に覚えのない昔話。海蛇は己の変貌に気付いていないらしかった。ひとりで生きていこうと思っていた、でも忘れられなかった、ずっと探していた、やっと会えた、またあの日に戻りたい、ふたりで生きていこう、今度はずっと山奥に住んで。そのような内容は聞き取れた。  ミーサはあまり興味を示さず相槌を打つ。その声は普段より嗄れていた。指先から生えた鋭い爪のようなクリスタルは徐々に面積を増やしている。焼け焦げた袖がさらに彼女を疲弊させてみせていた。レーラは大きな鰭で結晶化している手を包む。袖を垂らしたような鰭膜(きまく)で触れても軟条で触れてもそこに感覚はなかった。得意分野ではなかったが治癒術が使えそうだった。 「ダメすよ。消耗するだけすから」  彼女は扱いづらそうに鰭膜を摘まみ、截形(せっけい)の鰭のように隆起する水晶に引っ掛けないよう離させた。すでに肘まで大小揃わない結晶が並んでいる。球形の障壁が大きく揺れ、レーラはミーサの不安を(さと)った。 「ミーサ?」 「海の中って落ち着かないんすよね。海は、割りと好きなつもりなんすけど…」  球が歪む。ミーサは膝に顔を埋めたままさらに縮まろうとした。語尾が小さくなり、彼女はひどく落ち込んでいるようだった。 「何かあったのか」 「何もないすよ」  ミーサは顔をわずかに起こすとレーラへ引き攣った笑みを浮かべた。そうしているうちにも彼女の腕はクリスタルに蝕まれていく。レーラはあることに気付いた。首から下げられている人工クリスタルは粉々に砕け、そこには杭のような根付しか残っていなかった。どうやら他にも人工クリスタルを所持しているらしい。レーラはそのことを訊ねようとしたが口を噤んだ。今はミーサのこの障壁に頼るほかなかった。 「ひとつだけ訊いてもいいか」 「聞くだけなら」  相手は口角を吊り上げ、陰険さを帯びた笑みを貼り付けていた。 「何故、ずっと長いこと、別の術を使い続けているんだ」  ミーサはまだ陰湿な表情をやめず、膝と腕の中に顔を埋める。レーラは少しの間待ったが返答はなかった。本当に聞くだけだったらしい。 「永久凍結」  忘れた頃に突然ぽつりと彼女は呟いた。 「どういうことだ」 「大事なものをずっと、凍らせて、眠らせてるんす、長いこと」 「それは、」 「すべてのものには終わりがあるっすからね。朽ちて腐って。それがね、我慢ならないこともあるんすよ」  普段どおりの飄々とした態度に戻り、彼女は補足する。そしてそれ以上踏み込んでくるなとばかりの空気にレーラは黙った。 「海の中で生贄にされた恋人を探していたのかも知れないすね、ずっと。怪物になるくらい長いこと、執念深く。でもきっとあの怪物にとってはそんなのはもう一瞬くらい短いものになってて、そんな自分の変貌にも気付かないで」  レーラも物思いに沈みかけようという頃にミーサは照れ臭そうに喋った。まるで興味を示していなかったがきちんと内容は頭に入れていたらしい。目が合うと苦笑へ変わる。 「そういう浮ついた絵物語は好きじゃないすけど」  円い双眸を無言のままレーラは捕まえていた。そのうちに軽薄な苦い笑みも消え、溜息を吐いて両膝の狭間へ戻った。彼は意味もなくミーサを見つめていた。クリスタルはすでに肩を呑んでいる。レーラの身体はそうしているうちにいくらか回復した。まだ慣れない鰭を持ち上げる。弱い炎が棘条(きょくじょう)に灯る。障壁自体が淡い光を持ち内部は明るかったがさらに明るくなった。 「レーラ殿?」 「少し回復した。ありがとう」  球形の障壁が放ってた光がわずかに弱まった。暗く濁った遠くから小さな気泡が流れ、2人を包む球にぶつかって二手に分かれていく。得体の知れない不穏な気配が近付いてきていた。レーラは尾部で立ち、ミーサのほうへ転倒する。彼女はぎょっとしたが、それでも構わず身動(みじろ)いで小柄な身体を背へ隠した。球形により歪んで映る海竜の影が突進してくる。大きく開いた口が障壁ごろ喰らおうとしていた。だが閃光が巨大な海蛇の怪物を撃った。暗い海底へ濃く塗り潰された長い躯体が沈んでいく。無数の小さな鰭が揺らめいているのがみえた。想像よりもかなり深いところまで揺蕩い落ちていく怪物はやがて爆発的な光を生んだ。歌声がほんの少しの間海に響いていた。ミーサは球の内壁に手を当て、熱心にその様を眺めていた。 「生贄に情を寄せるとこうなるんすね。でも生贄のコトなんか、他の誰が覚えていてくれるんだろう?」  レーラはミーサに気を取られていた。その真後ろで障壁が破られる。伸びた手にレーラは術をかけられ、掴まれる。尾鰭が浮いた。胸鰭と化した腕はミーサも連れて行こうとした。 「ミーサを置いていけない」 「まずはレーラ様から」  引き上げる腕はスファーだった。クリスタル化の進行している仲間は破れた穴から流入する海水に巻かれながら離れていった。 「ミーサ!」  巨大な海蛇が放つ光の残滓がレーラを抱いていく。一筋の痺れが脳天から爪先を駆けていった。意識が遠退く。  女が崖の上に震えながら崩れ落ちた。潮風が外に跳ねた毛先を揺らす。濁った桃色の髪が地に伏せられた顔を覆い隠した。目の前に広がる海には一隻の小舟が沖を目指し漂っている。花束とパンと葡萄酒が乗せられ、波によって揺れながらも空と海の境界に引き寄せられていく。女は草を引き千切り、日が沈むまで這っていた。星が空に輝く頃、彼女の背から巨大なクリスタルが突き刺さるように生え、もうこの女は動かなかった。 *  飛び起きた幼馴染をセレンは慌てて支えた。レーラはセレンの顔を見るやいなや安堵する間もなく周囲を見回した。スファーは徐にセレンの手をレーラから剥がし、代わりにその背を支える。この者の体温は低く、セレンに触れられた時のような熱や痛みはなかった。 「ミーサは」  スファーの手を腕に相当する胸鰭で止め、紫水晶の双眸の奥を見据えた。 「アルス殿と甲板にいます」 「無事なんだな?」 「はい」 「救助用ボートを待っているの」  セレンが説明した。救援ボートを最寄の港町へ送ったらしく、そこから迎えの船がやって来るらしい。この船はもうここから動けないということだ。 「…そうか。心配をかけた。ありがとう」  セレンとスファーを順に見る。セレンは首を横に振った。 「ひどく体力を消耗しています。海水を吸ったせいでしょう。今は休んでいてください」  スファーはレーラから手を離した。セレンはバケツで布を濡らし、鱗に覆われた下半身へ被せた。暫くするとアルスが戻ってきた。 「あ、よかった。レーラ、目、覚めたんだ」  アルスはレーラの寝ている寝台の横で屈み、目線を合わせた。 「心配かけた」 「全然。無事でよかった」  彼は穏やかに言った。怪我をしている様子はない。 「ここから動くのは少しの時間がかかるみたい。整理券をもらってきた」 「分かった。すまないな」  アルスは柔和に笑って話を終えた。だがレーラの腰をから下を見たときに一瞬、険しい目へと変わった。時間がかかればかかるほど戻りづらくなる可能性が高いことは聞かされている。 「少し眠りたい。心配をかけて本当に悪かった」 「分かった。何かあったらすぐ呼んで」  アルスは幼馴染がバケツを絞り終えるのを待つと彼女を連れ、彼は動く気配のないスファーにも声を掛けてた。足音3つは部屋の外に出ていく。脚を動かす要領で尾部を動かす。寝台を尾鰭が叩いた。レーラは大きな溜息を吐いた。頭を抱える腕もない。扉が開いて、「あれ」と間の抜けた声がした。 「ミーサか」 「そうっす」  足音が近付き、寝台の傍にやってくる。ミーサの片腕の袖は相変わらず焦げ、手には包帯が巻かれている。 「立ってると酔うんで、座るすね」  彼女は扉の横の腰掛に向かいレーラの視界からは消えてしまった。 「腕の具合はどうなんだ」 「良好すね、かなり」  共に海に投げ出された仲間は寝転がっているらしく天井に声が響いた。良好なのは様子や声音からしても事実なようだ。 「すまなかった」 「これに懲りて、いきなり腕を引かれたら防衛しないだなんてやめてくださいよ。あんな誘拐みたいな真似されたら燃やすことす」  投げやりな調子で彼女は言うと黙ってしまった。居たことも忘れるほど気配を隠し、音もなかった。沈黙の間レーラはアルスの眼差しにばかり囚われていた。深刻な意味合いをそこに見出してしまう。ひとりになりたいと思ったくせ、ひとりになるべきではなかったのかも知れないと彼は悔いていた。 「俺が元に戻らなかったら、アルスは俺になれるだろうか」  返事はなかった。寝息すら聞こえない。濡れた布を巻き付けた尾部が脚のあった場所に横たわっている。 「俺がもし元に戻らなかったら…川に連れ出してくれ。アルスを自由にしてやってくれ。頼む」  やはり返事はなかった。寝言もない。意識を失っている間流れ込んできた夢のような記憶と重なり、ミーサを呼んだ。羽化した途中の蛹のように背からクリスタルを生やした女はミーサだった。 「…重労働すね」  遅れてきた返事は了承でも拒否でもなかった。
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