40 / 41

39

 船はかなり大きかった。絨毯は足音を控えめなものにし、薄暗い照明は不気味な印象があったが、廊下も部屋も高級な複合宿のような風情があった。内装だけでなく、半魚と化しているレーラに奇異の視線を向けはしたものの車椅子の客への対応もしっかりしていた。確保した2部屋は甲板から近く、部屋の外は少し騒がしかった。しかしレーラは車椅子の上でぐったりとして長いこと目を閉じていた。汗で肌が照っている。彼の様子を気にしてセレンも隣の部屋から来ていたがかえって人の気配が具合の悪さを助長しているようだった。スファーはレーラの傍を片時も離れず、アルスはセレンを連れて看板へ出ることにした。船の進行方向とは逆の方角から出たらしく、すでに小さくなった陸が遠くにみえた。一面の青い海と淡い空の境界線に吸い込まれてしまいそうでアルスはわずかな不安を覚える。セレンは長い金髪を日の光に煌めかせ、特に不安な様子もみせずにすいすいと手摺のほうへと行ってしまった。人混みの中に消える前に彼女の隣に立つ。近くの客が菓子を持った手を空に掲げ、海鳥がそれを喰らい奪っていった。陽気な光景は王都やロレンツァとそう変わらなかった。いくらか日常と違う環境に緊張感が和らぐ。だがほんの一瞬のことだった。辺りは突然霧に包まれ暗くなって、周囲には誰もいなくなる。不穏なほどの静けさが訪れ、隣にいたはずの幼馴染の少女の姿もない。アルスは頻りに周りを見回した。振り返る。まるで夢でも見ていたかのように甲板は海原と人、音を取戻していた。だがそれは賑やかささとはまた異なり不安や焦燥を煽るようなものだった。子供の泣く声が耳に届き、鬱屈した様子の者たちが目に入る。 「アルス」  セレンが彼の腕を取った。視界が霞み、目に入るものが二重になって揺れた。再び周りは暗く濃い霧に覆われ、セレンも乗客たちも瞬く間に姿を消した。歌声が聞こえる。それが女声らしき高音だと聞き取れた。途端、目の前の光景は大きく変わり、乗客たちは騒ぎ始めてごった返した。自分の身だけに起こっていることではないようだった。 「アルス、何か変」  彼女の手の感触もまた腕に戻っていた。海もまた空より濃く深い色をしている。 「セレンもそう思う?」  彼女は頷いた。そして部屋に戻ろうと言った。しかしアルスたちと同様に船内に戻ろうとする者もいれば興奮したり、戦慄したり、体調を崩したりとそこに留まる者、甲板に出てこようとする者たちなどで激しく混雑した。そのうち、幽霊船だの沈没の予兆だのと叫び声や感嘆の声が上がった。その間にもまた数度、アルスは暗い霧の中でひとりになった。暫くしてやっと辿り着いたらしき船員が現れ、上の階にあるオープンデッキや下の階に繋がるプロムナードデッキ、さらに下の階にあるメインデッキなどへの誘導をはじめる。アルスたちの部屋は甲板から近いにも関わらず、戻ることができたのは長いこと後で、船室を出た時よりもレーラは体調を悪くしていた。スファーは鱗を濡らすために持ち込んだバケツで布を絞り、彼の額に乗せる。その唇は青く、意識も朧げだった。スファーは反して顔色ひとつ変えずアルスとセレンを見て、大きな魔物が近付いてきていることを話した。あまりにも軽妙な語り口で、水を切る音で掻き消えた部分さえあった。 「大きな魔物って…」 「詳細は分かりません。ただ、近くまで来ていることは確かです。変異した体質だけでなく、さらにその波動を受けてレーラ様は苦しんでおられます」  淡々とした口調で補足する。鱗を潤す布を次々と濡らしていく手は光に包まれ、筋を作りながらレーラへと延びていく。それは治癒術だった。 「その魔物を討つか、遠ざかるのを待つかです」 「じゃあそれまでレーラはこのまま?」 「そうです」 「航路を変えるなんて、出来るわけないし…」  アルスは俯いた。水の滴る音が室内に大きく響いた。 「レーラ…しっかりして」  セレンはレーラの傍に駆け寄って鰭と化した手を取った。スファーが人の体温が彼の魚類と化した体表に良くないことを注意する。 「ああ…すまない。寝ていた」  固く閉ざされていた目蓋が持ち上がる。隈は濃く、焦点はすぐに定まらなかった。 「これ以上の術はレーラ様の負担になりますので、一度中断します」 「すまない」  スファーは手を光らせるのをやめた。レーラへ伸びていた筋が途切れ、光は薄くなっていくと彼は深く長い息を吐いた。 「何でも言って。わたしに出来ることがあったら何でもするから」  セレンは半魚人と化した幼馴染に掴みかからんばかりでスファーに制されていた。 「何ともない。心配かけてすまなかったな」 「何言ってるの!こんな時に」  船が揺れた。またアルスはひとり霧の中に佇む。歌声が響いた。しかし数秒で奇妙な光景は消えてしまった。セレンやスファー、顔色の悪いレーラが霧の跡などひとつも残さず目の前に存在している。だが視界は暗い色を帯びたままで、セレンは小さな悲鳴を上げた。明かりが消えている。 「水の精霊になれなかった魔物のようです。ボクも今、その瘴気に触れました」  暗い室内でスファーはまるでそのことを気にするふうもなく話しながら指先に炎を灯した。扉の奥が一気に騒がしくなる。足音も響き、また別の揺れが床から伝わった。 「水の精霊って…」  セレンが呟く。 「あの歌声も?」  アルスが訊ねた。スファーは肯定した。 「あの歌声が瘴気の源です。あの瘴気こそがレーラ様を苦しめています」  部屋の扉が開き、アルスはスファーの言葉から顔を逸らした。額を押さえたミーサが入って来て扉近くの壁に固定されたソファーに寝転んだ。 「ミーサちゃんも具合が悪いの?」 「船酔いっすよ。何かあったんすか?外うるさいし。事故ってわけでもないみたいっすし」 「ミーサは何も見なかったの?」  セレンはレーラの傍に寄り添いながら少し離れているミーサに訊ねた。 「何かって何すか。幽霊船(ゴーストシップ)だって騒いでいる人たちがいたっすけど、そういうのすか?あんまり信じてないんすけど…」 「ううん。そうじゃなくて…霧みたいなの…」 「霧?」  ミーサは本当に知らないようだった。 「みんな視てるわけじゃないんだ」 「本当に幽霊船(ゴーストシップ)みたいじゃないすか。果たしてこの船が怪物そのものなのか、招かれざる乗客がいるか…ってところっすね」  ソファーで仰向けになりミーサは普段より低い、呻くような声で喋った。 「水の精霊になりきれなかった魔物が近付いてるんだって」 「魔物?」 「霧の中で女の人の歌が聞こえるんだ。それがその、魔物らしい」  彼女に説明している間にもアルスの耳にはまた高く細やかな女の歌が流れていた。 「シーレーンのルエンレイ?」  ミーサはぽつりと口にした。アルスは「え?」と訊き返した。 「自分あの話好きじゃないんすよね。婚約者が海の精霊の生贄にされて、気を病んだ娘が歌いながら死ぬまで恋人を弔う話っすよ。海で起こる原因不明の事件・事故はルエンレイの呪いってことで片付けられることもあるらしいんすよ。婚約者が沈められた海を荒らすのは許さないってね。絵本にもなってるすよ。そっちでは、その娘は人魚、婚約者は海の王になって幸せに暮らしました…って終わるんす」  重い船酔いだったようだがミーサは活気付いて話した。船がまた左右に揺れる。 「人魚の話ならわたしも聞いたことあるけれど…魔物なの?」 「人のためにならなければ大体全部魔物っすよ。家畜か野生動物か、ペットか害獣かの違いみたいなもんす」  ソファーの背凭れに腕を掛け、ミーサは船の揺れに顔色を悪くした。スファーの指先の燈火から離れているためさらに血色が悪くみえた。 「誰かを探しているみたいだ」  レーラが重苦しげに口を開いた。アルスとミーサも彼のほうに注目する。 「人魚のような女が歌っている」  彼は小さく呻いた。大きく開いた袖を思わせる鰭で頭部に触れる。スファーの空いた片手が一瞬光り、車椅子の上の身体が弛緩した。セレンは驚いた表情でスファーを見る。 「何をしたの?」 「眠らせました」  スファーは指先に集まっていた粘つくような光を断ち切った。彼女は眉間に寄せた皺を消すと緋色の髪を巻き込む汗を手巾で拭いた。彼は人形のように浮かず、船の揺れに身を委ねている。 「魔物の凶暴化につきましては、種上げの儀式の影響が挙げられます。この魔物も同じ類のものでしょう」  相変わらずの無表情でスファーは言った。そして部屋を出ようとする。アルスはどこに行くのかと訊ねた。甲板に用があるらしい。 「この状況を解決せねばおそらく船は動きません。時間が長引けば長引くほど、」  紫水晶を嵌めたような瞳が車椅子を穿つ。 「レーラ(サマ)が元に戻らない可能性に比例するってことすな」  ミーサが言葉を引き取った。 「オレも行く」  アルスはスファーへ歩み寄った。紫の瞳はセレンへ移る。 「レーラのことはわたしが看ているから」 「よろしくお願いします」  そして敵意も好意も籠めらえていない眼差しをミーサへも浴びせた。 「放流なんてしませんて」 「行こう、スファー」  アルスは割って入るようにスファーの肩を叩いた。  残ったセレンはレーラを支えながら車椅子の背凭れに直した。ミーサは腰掛に寝そべり彼女等を眺めていた。アルスとスファーが出て行って数分経つと部屋の扉が合図も挨拶もなく開け放たれる。ミーサは飛び起きてセレンと車椅子の前に立った。フードを深く被り、顔は見えなかった。目の粗い麻袋を服に仕立てたような素材でミーサもセレンも見覚えのあるものだった。ロレンツァの橋の上で一悶着起こした記憶は彼女等にとって古いものではなかった。 「金の匂いがすると思ってたんだよな、その(あん)ちゃん」 「部屋番号間違えてませんかね」  ミーサは訊ねた。背の低い彼女を見ろし、フードの者も同時に首を傾げた。 「人魚の鱗は高く売れるって知ってる?一枚くれよ」  物騒な外見をしているが声は爽やかで喋り方も軽快だった。 「お断りするわ」  セレンが叫んだ。ミーサはフードの者の反応を窺う。 「そんなにくっついてんだ、一枚くらい…減るケド、困らねぇだろ?」 「困る困らないの話なんすか」 「それならここは力尽くで。ひとり、ふたり…」  「ミーサ、下がって!」  フードの者は言い聞かせるようにミーサとセレンを指で差しながら数えた。セレンは車椅子を離れ、得体の知れないフードの男の前にいるミーサの腕を引き寄せる。 「別に指1本2本寄越せって言ってんじゃないの。鱗1枚くれって話でさ」 「そちらさんの利き手の親指の爪1枚くれって言ってるようなもんすよ」  フードの者は体型を隠すような丈の長いマントから短剣を抜いた。真っ白な刀身に靄のような禍々しいものが纏わりついていた。 「人魚の歌声、消灯、魔剣…幽霊船って本当かも知れないすね。恐ろしいす」 「一番恐ろしいのは、この前会ったおにいさんが実は人魚だったってこと以外ねぇよ」  剣先がミーサとセレンの間で惑った。セレンはミーサを車椅子のほうへ放り投げ、白い短剣の前に立つ。 「またレーラのこと狙ってどういうつもり?」 「用件は簡単。鱗1枚くれって。人魚だぞ、人魚。お嬢さん見たことある?あ、今あるか」  フードの者が突き出す切っ先がさらに一歩踏み込むセレンへ迷いをみせる。
良い
エロい
萌えた
泣ける
ハラハラ
アツい

ともだちとシェアしよう!