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セレンは宿の階段を駆け上がった。アルスたちが借りていた部屋に飛び込む。ベッドの上には確かに人影があった。だがセレンの知る幼馴染の姿とは少し違っていた。ベッドのシーツを人にはない尾鰭が叩く。彼女は言葉を失い口元を覆った。下半身はまだ紅蓮の鱗を纏っていた。他人であったなら、元からそういう肉体であったなら美しいとさえ思ったかもしれない。しかしセレンにはそれが尋常でないことは容易に理解できた。近付いてくる足音に彼女は大慌てで部屋の扉を閉め、内側から鍵を掛けてしまう。
「セレン?どうしたんだ?」
アルスが扉を隔てて訊ねた。緩やかなノックの次に把手が幾度か回った。セレンはどうすることもできず背を軋む木板に押し付けながら先程海に沈めた化物同様に巨大な鰭と、禍々しいまでに美しい鱗を持つ幼馴染の身体を唖然としたまま目でなぞった。幸いにも彼女を悩ますその肢体の持主は尾だけがシーツを叩いているがまだ意識を取り戻していなかった。
「セレン…?ドアが壊れたのかな」
部屋の外が騒がしくなる。鍵を外しゆっくりと隙間を作る。アルスは無理に入ってこようとはしなかったが不安な表情を浮かべていた。「元に戻ってない…?」
慎重な様子で彼は訊ねた。上半身は確かに戻っていた。だが腰から下に脚はなく大きな尾鰭になり、両腕も肘から鱗に覆われ指や手はなく鰭が生えていた。
「半分だけ…まだ魚なの…」
「え、」
アルスは扉の間に身を割り入れようとした。セレンは全身を使って扉を押さえた。
「だめ!その…レーラ、見られたくないと思うから…」
セレンはもうひとりの幼馴染を封じた。説明すると彼はあっさりと身を引いた。ミーサとスファーもやって来てセレンはもう一度説明する。
「様子が分からなければ手の施しようがありません」
スファーは納得せず構えた手には魔力が籠り、アルスはその手を掴んで降ろさせる。
「今の説明がすべてだと思うすよ。こういう場合、肉体だけ治療するのは医者として正解でも仲間としてどうなのかはちょっと分からないすね」
ミーサは小首を傾げて扉の前に立ち、スファーのを見上げる。
「レーラ様はこの国を背負ってゆかれる御方なんだよ。何よりも治療を優先させて然る」
「そうすか」
彼女は簡単にスファーの前から退いてしまう。しかしセレンは扉の把手を掴んだままで廊下にいる3人を中に入れる気はないらしかった。
「レーラもきっとスファーみたいなこと言うと思う。だから嫌なの!わたしが嫌なの。レーラは自分のこと、すぐ後回しにするんだから…」
セレンは感情的になって叫ぶように言った。
「とりあえずもう一部屋借りられないか聞いてくるすよ。隣の部屋ベッド2つしかないんで」
ミーサはまるで逃げるように受付へ下りていった。
「スファー、オレからも頼むよ。ここはセレンに任せて、オレたちはこれからどうするか考えよう」
「答えは簡単です。クリスタルの森にあるユニコーンの泉にある湧水で治るでしょう。ついでにミーサ殿のクリスタル免疫不全の治療も望めます。ですが行ってまた戻ってくる間にその術がレーラ様に癒着してしまえば回復は困難を極めます。かといって僕はユニコーンの森に行ったことがないので転送することもできません。そのためにレーラ様を背負って連れていくためにはここを通る必要があります。ですが強行突破は望まれないのでしょう?」
アルスはうん、と力強く即答した。そして扉の隙間で俯くセレンを気遣わしげに見ていた。彼女はするに答えを出せないようだった。
「大丈夫だ、俺は」
部屋の奥からまったく別の声がした。
「ありがとう。それと、すまない」
華奢な番人が油断した。スファーは中に入ってしまう。アルスも躊躇はしながらもセレンの傍に寄り添いながら踏み入った。普段のレーラよりも、腰から下が巨大な尾鰭になったために背丈が伸びているような感じがあった。彼は上体を起こしてベッド柵とそれに接した壁に背を預けた。
「風呂場に連れていきます」
スファーはこれという驚きもみせず興味も示さなかった。抱えられそうになる前にレーラは自らの尾でベッドから降りたが歩行に慣れた身体では均衡が保てずアルスとスファーによって支えられる。大きな尾が床を蹴った。部屋ごとに設けられた小規模な浴室へ少しずつ運ばれていく。セレンは暫く立ち尽くしたがやがて部屋に戻った。
レースカーテンの奥でミーサが風に当たっていた。その隣へ向かう。雨は止んでいた。
「ごめんね」
ベランダは雨で濡れていた。ミーサは円みのある目を見開いて「なんですか」と不思議げにセレンを捉えた。
「手間取らせちゃって」
「いや…これといって…むしろこっちの配慮が足らなかったくらいすよ」
セレンは長い髪を揺らす。ミーサは靡く金糸を眺めていた。
「レーラが板挟みになるだけだった」
「でも誰も気付かず、誰もが変に忖度 してたら、それこそレーラ殿、孤立しそうすよ」
潮風が吹いている。ミーサは鼻を啜った。中に入るよう促すと彼女は素直に従った。
「言わなくてごめんす、金魚のこと」
「いいの。きっと今のわたしと同じだったんだろうし、多分、すぐに信じられなかった。あの姿をみて、やっと信じられたくらいだもの」
またぱらぱらと雨が降る。ミーサは暫く空を仰いでいた。セレンは俯いたきりで、落ち着いた静寂が2人の間を流れた。しかしそれはすぐに終わり、アルスが扉を叩き、ミーサが返事をした。
「明日、クリスタルの森に行くことになったから」
「じゃあ船っすね。歩いて行けるところじゃないすから」
ミーサはアルスから背を向けたままでセレンをわずかばかり気にしている様子だった。
「レーラはどうするの」
「連れていく」
「どうやってすか」
セレンとアルスの会話に彼女は口を挟んだ。
「レーラ、歩けるの?」
彼は黙ってしまった。ミーサは気拙げに頬を掻いた。
「人間として扱われるか、なんすよ。問題は。車椅子とか台車とならとにかく、水槽となるとねぇ…」
「車椅子!」
アルスとセレンは顔を見合わせて互いに叫んだ。
「車椅子がどこかで手に入らないか探してみるよ」
彼等は息を揃えてミーサに手を振り宿を掛け出ていった。ひとり残ったミーサはラタン椅子に腰を下ろし、またぼんやりと雨が上がったばかりの空を眺めていた。まだ濁った色をしていた。視界の端にいつの間にか入り込んでいたスファーに気付くまでそうしていた。音もなかった。紫水晶のような瞳は開いた扉から室内を観察していた。
「びっくりしたっすよ。何すか」
「レーラ様がお呼びだよ」
「今行くっす」
すれ違いざまにスファーは攻撃的な握力でミーサの肩を掴んだ。表情は冷めているがその手は威嚇を含んでいる。無感動な双眸はミーサを見下ろしたままで呼ぶ必要もなかった。訊ねる気が失せてしまう。何故見逃したのかと。金魚鉢を持ち出すことを許したのかと。ミーサは真っ直ぐなのか虚無なのかも分からない目を見てへらりと笑う。
「大丈夫っすよ、今の大きさで誘拐なんて考えてないっす。無理っすよ…でもさ、スファー」
冗談めかして言うとスファーの手は彼女の肩から下りた。すぐ隣の部屋には入った途端から水の音がした。浴室は開け放たれ、湯の張った浴槽からは巨大な尾がはみ出て水滴を垂らしていた。いきなり入ることも憚 られ「こんちは」と声を掛けると「ああ」と返ってきた。
「何か不便でもあったっすか」
「…大体のことが不便だ」
レーラはすました表情をふと緩め、彼にしては素直に打ち明けた。
「そっすね。ちょっと待つっす」
ミーサは乾布を濡らすと湯に浸れない尾に被せた。
「セレンはどうしている?」
「アルスさんと探し物っす。気落ちしてないか心配すか」
手で湯を掬いながらレーラの鱗になってしまっている腕や肩にかけた。
「どうしていいか…分からないものだな。セレンの顔さえ立ててやれない」
「セレンも同じようなこと思ってるすよ、きっと。お互いに自己嫌悪なんすね。あとでちょろっとそのこと話せばいいんすよ。そういうのよく分からないっすけど」
体温のない鰭が彼女の湯を掬う小さな手を止めた。初めての質感にミーサは妙な顔をした。
「熱かったすか」
「いいや。ありがとう」
「いいっすよ。乾燥はなかなか厄介っすもん」
「そのことではなくて」
彼女はレーラの目を見ず、顔も見ようともしなかった。鰭の触れたままの手を引っ込め、まるで嫌がるように接した箇所を撫でる。
「すまない。嫌だったか」
「ちょっと意外な感触だったもんすから…気を悪くしたらごめんなさいっす」
強張った様子をみせたレーラの鰭を今度はべたべた触り始めた。鱗は固く張りがあった。湯に指先を染める手から彼の鰭がわずかな拒否感を持って抜かれた。
「連れ出してくれてありがとう」
「連れ出すなんて甘いものじゃなかったんすけどね。金魚の時の記憶あるんすか」
「あまり鮮明ではないがな。断片的に…」
ミーサは苦々しく笑った。
「あれは礼を言われることじゃないっすね。むしろ自分が謝ることっす。ただ自分は同じことになったらまたやるっすから反省のイロはないっす」
「ミーサが気を回さないで済むよう、気を付ける」
「いいっすよ、要らないっす。その時は自分の価値観 の問題っすからね。レーラ殿はお好きにすることっす。その後の尻が拭える程度のことをするんすから」
また湯を掬い輝く鱗にかけていく。思考を奪うような美しさで、雫を滴らせる姿はさに情感を増長する。レーラは気配もなく浴室の入口脇に立っていたらしきスファーを呼んだ。その者は用は無いようなことを返してミーサの背中から目を離さなかった。
アルスとセレンは日が沈む前に車椅子を持って戻ってきた。村長の親族が前に使っていたらしく処分せずにいたため譲り受けたらしかった。レーラは浴室に留まり、スファーが浴室の前に番人然として座り込んでいた。様子を看に来るセレンや同室のアルスは快く通されたがミーサは廊下を通るたびに無感情なくせ威圧感のある眼差しを喰らわねばならなかった。彼女のほうからレーラに近寄ることはなくアルスはそのことにいくらか気を揉んだ。
夜が明けレーラを車椅子に乗せスファーとセレンが代わりながら押した。ミーサはバケツを持ちアルスは前方の雑草を踏み小石を蹴っていた。船の着く港町はそれほど遠くなかった。古びた建物が高く積み重なるような町の風景と長い桟橋が特徴的だった。緩やかな斜面を下り海へと近付いていく。港町に入る道から直接通る波止場には、規模こそ小さかったが景観は保たれ釣り人や海鳥が長閑な雰囲気を醸していた。車輪は軋みながら石畳に引っ掛かり肘置きの上を鰭と化したレーラの手が滑って身体が前のめりになった。車椅子から落ちかける身体をセレンの手が繋ぎ止める。
「すまない」
「大丈夫?」
スファーはセレンに頷くレーラの鰭を見つめていた。ミーサはぼんやりと空を回っている大型の鳥を目で追っていた。
「乗船券買ってくるっす」
3人は船留と船留の間で休むことになった。ミーサは水の入ったバケツを置いた。アルスはついていくことにて彼女を追う。すぐに隣に並んだ。
「晴れてよかった。雨のほうが…よかったのかな」
「自分も晴れてよかったと思っすよ。雨は気分まで落ちるっすから。嫌いじゃないっすけど」
乗船券売り場のある小屋に歩きながらミーサは言った。アルスは揺れる黒いリボンから視線を外し澄んだ青空に投げた。カモメの声が高く響き、居住区から大声の会話が聞こえた。新しい土地の空気に身を浸しているうちにミーサは先へ行って売店の者と話していた。彼女の手に券が人数分渡される。一枚だけ違う色をしていた。
「浜焼きでも食べてから行くっすか。空きっ腹は酔うっす」
「よく知らないけど浜焼きって夜のご飯じゃないの」
アルスの返答に彼女は肩を竦めて悪戯っぽく笑って、「そうっしたっけ?」とおどけた。
「じゃあどこか…まだ時間もあるみたいっすから。何か買って外で食べるっすか」
「それがいいね。オレが買ってくるよ。ミーサちゃんは先戻ってて」
「…そうっすね。任せたっす」
ミーサは数秒考えたふうだったがアルスの肉を食べたり、かといて動物性蛋白質を摂らないわけでもないこだわりを考えると彼に任せてしまうほうがよいと思い至ったようだった。5枚の乗船券を抱いてミーサは埠頭に戻る。彼等にアルスは買い出しにいった旨を伝える。レーラは背凭れに身を預け、かなり疲れているようだった。スファーはその傍で水平線をぼうっと望んでいたが小柄な陰が近付くと海と空の境界になど何の感慨もなかったらしく彼女をすばやく捉えた。監視されるような扱いを受けている本人は気にしている感じもなくセレンの隣に落ち着くとまた上空を回っている大型の鳥を見ていた。後ろには弦楽器の弾き語りをする若者がところどころ音を外しながらも陽気な曲を奏でていた。ほどなくして紙袋を抱えていたアルスが戻ってくる。ひょひょいと朝餉を配って車椅子の前に屈み込んだ。まるで跪いているような体勢で、目蓋を閉じていたレーラは、はっとして背凭れから身を剥がした。
「楽にしててよ。パンとか食べられそう?」
アルスは彼に焼き立てのパンを差し出した。
「ああ。いただこう」
巨大な鰭はしかしそのパンを掴めなかった。スファーが落ちそうになった熱い食べ物を支える。
「本当に召し上がるんですか」
スファーは訊ねた。アルスとセレンがレーラを向いた。彼は小さく肯定した。カモメが鳴いている。嘴になにか咥えた海鳥が翼を畳んで一行の近くに降りてきた。スファーはパンを千切りレーラの口元へ運ぶ。不穏な空気だけで腹を満たされた気になったミーサはチーズの入ったパンを食む。2口、3口ほどでレーラはスファーにも食べるよう言った。しかしスファーはその必要はないと斬り捨ててしまう。
「潮風が効いちゃってるんじゃないすか?疲れてるんすよ、売店に休憩所ありましたし、屋内行きましょ」
チーズパンを齧りながらミーサは鬱屈した空気の端で彼等を一瞥した。
「いや…俺は…」
「行こうよ」
セレンが言って車椅子を押す。彼は蒼褪めた顔に冷や汗を滲ませていた。かなり体調は良くないようで、スファーは当人に知られないように少しずつ治癒術をかけているらしかった。
「すまない」
「何言ってるの。気にしないで」
日の光も水生生物の鱗には強い敵らしかった。車椅子の上でぐったりしながら肘置きからも上体が落ちそうだった。
「アルスさんは行かないんすか」
セレンとスファーと共にいかない少年に訊ねる。パンを喰らう手は止めなかった。
「あまり囲むと余計休めないでしょ、レーラのことだから」
彼は屈んで膝に頬杖をついた。そして取って付けたようにミーサの体調を気遣った。
「今日は大丈夫っすよ。耐性ついたんじゃないすかね」
適当なことを言ってわずかに表情を険しくした横顔を窺う。
「気付かなかった、全然」
「言われなきゃ気付かないことなんて多々あるっすよ。たとえば肩に糸くず付いてるっす」
ミーサは手を払ってパンのくずを落とすとかなり下にある肩に乗っている糸くずを摘まんだ。
「気付かないこと、これからいっぱいあるんだろうな。苦しいことも知らないで」
「気付かなきゃ無いも同然っすよ」
「レーラは…言わないから。オレが気付かないと」
彼女は食べかけた部分を千切って残りをアルスに差し出す。彼は、えっ、と目を丸くする。
「腹減って気落ちしてんすか」
「そんなことないけど」
受け取らないためミーサはまた食事を再開する。アルスは海面を所在なく視界に収め港町の音を聞いていた。
「あの船っすよ、あの船」
水平線から浮き出て大きくなっていく船を彼女ははしゃいだように指で差した。そして踊るように乗船券売り場のある小屋に駆けていった。のんびりとその後を追う。
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