37 / 38

第37話

 宿に戻るとスファーが金魚鉢を抱いて監視同然にミーサへ珍しい色の瞳を向けていた。セレンは相変わらず抜殻状態だったがミーサの姿を認めると無言のまま小さな身体を抱き竦める。しかしそれは縋り付くようで彼女は自らの力で立ち上がれそうになかったためベッドまで付き添う必要があった。たとえ金魚の正体を伝えたところで気休めだとでも受け取って信じずにいるか、衝撃に発狂か失神でもしてしまいそうだった。掛ける言葉もなく、暗い室内は静寂に包まれる。大窓から月の光が入り、セレンの陰を青白く彫り起こす。たった1日で彼女は病的な雰囲気を持ち、明日にでも風の精霊に会いにいかねばならない気がした。音を出すのも躊躇われミーサは部屋を出る。共有の休憩所に座り、暫くそこへ留まる。他の宿泊客もいないため朝までこの場所で過ごそうとも考えたが暗い廊下の扉が開きよろよろとセレンが出てきた。 「もう寝たほうがいいよ。まだ体調良くないんでしょう?」  今にも転倒しそうで、すぐさま駆け寄り傾く華奢な身体を支える。 「ごめんね。明日から頑張るから」  艶を失った長い金髪がミーサの視界を塞ぐ。 「うん。でも無理しないことっすよ。頑張らなくていいんす、今は」  やつれた背を摩る。ミーサの背にもセレンの指が刺さった。咽ぶ声が聞こえる。 「ありがとう、ミーサ。でもそろそろ自分で立たないと。自分のことしか考えてなかった。ごめんね」  ミーサは首を振る。互いの髪がぶつかって混ざった。アルスが思うより彼女は強いようにミーサには思えたがそれでもアルスとの約束を守ることにした。セレンを半ば抱えるように部屋へ連れ戻す。  魔力を含んだ風がやみ、潮風だけが吹いていた。アルスは凪いだ海を眺め、スファーはラタンチェアに座って金魚を見守っていた。日光は眩しく、青い空には白い雲が浮かんでいる。カモメが飛び、朗らかな天気だった。 「行きますか」  ベランダから室内に戻り、紅色の剣を掴んだ。スファーは訊ねたがアルスの返事を聞く前に大窓の外へアメジストに似た瞳を投げた。海面が隆起している。まるで蛹の羽化に似た息吹は不穏な感じがあった。 「セレンたちを頼む」  アルスはそう言い残してベランダから飛び降りる。レーラが転落したという崖まで疾駆し、海から現れた長く巨大な陰と対峙した。尖った鼻先を持ち、硬質な表面の蛇に似た怪物が咆えた。草叢がそよぎ、アルスの暗赤色の髪が靡く。鋭い鰭が崖の先端を叩き、崩れ落ちていく。地が揺れた。怪物は再び咆哮する。アルスは姿勢を低くして風圧に耐える。後方から足音がして隣にスファーが立った。その横腹にはミーサを抱え、彼女は暴れていた。セレンも数歩遅れてやって来る。 「自分で立てるっすよ!」 「水の精霊をお願い。僕を魔力源に使って」  片腕でスファーに抱えられたままのミーサの指先が透け、真横の脇腹に減り込んだ。浮いた身体から光の粒子が発せられる。その間スファーは海蛇の怪物に雷撃を落とした。怪物は鋭い口元を大きく開く。魔力が長い舌の上で球を作っていく。空は曇り、暗雲が日の光を閉ざした。海面からは数本の水の柱が立ち、生物のように海蛇の化物を囲んだ。そして水でできた蛇を化し、アルスたちに襲いかかる。紅の剣が次々とそれらを斬った。背後から彼を狙う鋭く強固げな鱗を魔符が弾く。 「セレン!」 「集中して」  アルスは眉を上げた。セレンは彼を一瞥することもなく巨大な海蛇を仰いでいる。そのうちに怪物の頭上に陣が現れた。二重に描かれ、反対方向に回り始める、 「従いためへ、出でよ水霊」  スファーの片腕に抱えられているミーサが発光する指先を海へ向けた。海面に輝いた風が吹き、油膜のように煌めきが海を覆った。怪物を守るように暴れていた水の柱が鎮まる。怪物は上体を天へ一直線にして咆え、背鰭の小さくなった尾が海面を叩いた。水飛沫が上がり、大波がやってくる。それは津波や災害になりそうなほどのものではなかったが、浜辺にいるものたちを攫うには十分なほどの威力で、楽観できるような規模のものでもなかった。ミーサの手が浜辺に向き、指を手招きするように仰いだ。珊瑚の死骸や貝殻が浜辺から遠くなっていく波から放り投げられ、そこに人の姿はない。  怪物は尾を伸ばし、一行へ先端を突き出す。スファーはミーサを雑草へ捨て、尾を避けることもせず防護壁で受けた。粒子が渦巻き透けていた彼女の腕が実体を取戻し、元七星将の脇腹から抜けて名もすぐには浮かばない小さな花を潰した。海面を覆っていた虹色の光が薄くなっていく。波が盛り上がり、浜辺に勢いを増して近付いてくる。彼女は寝返りをうって俯せになり精霊の力を使い続ける。崖が大きく左右に揺れた。スファーは怪物の尾と張り合ったままで、アルスはその背鰭に乗り、怪物の身体を辿った。頭部が彼を喰らおうとしたためセレンの札が庇う。スファーが受け止めている尾が防護壁と張り合うことを諦め、地面を叩く。崖が軋む。相手を失くしたスファーは片手で障壁を保ち、片手で怪物の腹や喉を焼いた。怪物は暴れ、崖にいるセレンたちへ上体ごと叩き付ける。地面が抉れ、草花が散っていった。ミーサは寝転がって躱し、セレンはスファーが片手で張った防護壁で守られる。空が唸り、水平線の奥で稲光がした。 「セレン!」  ミーサは立ち尽くして動かなくなったセレンを呼んだ。アルスが海蛇の頭部へ剣を突き立てるとともに一瞬、極端な明るさが視界を覆う。耳を破壊するような爆音が響き、怪物は海面に倒れていった。大きく潮水が噴き上げる。ミーサはスファーとセレンを確認しアルスを探した。彼は危うい崖の先に降りていた。目が合う。「あっ」と彼は呑気に声を上げた。持主を変えたばかりの紅色の剣は海蛇に突き刺さったままだった。ミーサは怒ってないとばかりに苦笑した。雨が降り始める。セレンはアルスたちを振り返った。空はまだ暗い。 「セレン」 「ごめんね。もう大丈夫だから」  彼女は笑った。アルスはその細い肩を掴む。 「レーラは生きてる」  彼は叫んだ。ミーサはまだ引いていない苦い笑みを固めた。 「レーラは生きてるんだ」 「え…?」  何言ってるの?とセレンは激しい動揺を示し、目の前の幼馴染の額や頬。首に触れ彼が正常な状態にあるのか否かを確かめた。アルスはその優しいながらも狼狽の混じった手を退けた。 「レーラは生きてるんだよ!レーラは生きてるんだ!」  澄んだ川の浅瀬のような双眸がミーサに助けを求めた。アルスもまた加勢を頼むような眼差しを投げる。 「レーラ殿は生きてるんすよ…その、それを確かめられるのはまだ先で…」 「人の姿をしていないんです」  曖昧なことを言うミーサを遮りスファーが割り込んだ。言葉を濁したミーサは額を押さえて首を振った。 「どういうこと…?」  「風の精霊と契約すれば元に戻ると思うんだけど…」  アルスは「まだ言わないほうがいいと思ってたけど」「まだ方法も分かっていなくて」「信じられないかもしれないけど」と長い前置きをし始めた。セレンの眉間に深く皺が刻まれ、困惑の色を強めていく。 「金魚なんすよ!金魚!この人が大事に抱えてた金魚!」  ミーサは躍起になって喚いた。まるで自暴自棄になって発狂したように叫んでスファーを指で差す。 「そう、この金魚が王子様」  4人の背後から派手な服装の女が近付いた。肌の露出度が高く、大きな布がはためいている。その身形は踊り子を思わせた。雨水に濡れる様子もなく。透過性のある布が揺れている。形の良い長い脚が歩くたびに幾重にも垂らされた布の狭間から見え隠れした。長い爪の伸びた指には金魚鉢が不用心に握られている。セレンの面差しが変わる。スファーが女へ走った。踊り子と思しき女は空いた片手で挑発するような仕草をした。怪物とともに海に沈んだ紅色の剣が飛んできてスファーの足元に突き刺さる。雷雨が強さを増す。 「貴方は誰なの」  セレンが訊ねた。踊り子らしき女は目元を細めて金魚鉢に口付ける。中の金魚は何に頓着する様子もなく気の赴くままに泳いでいる。 「風の精霊です」  本人に代わりスファーが答えた。そして足元の剣を引き抜くとアルスへ投げる。 「ちなみに王子殿を元の姿に戻す方法って何なんすか」 「クリスタルの森。ユニコーンの泉」 「肌が潤いそうっすね」  軽口を叩いてミーサは踊り子らしき女の片手に乗る金魚鉢を凝視した。 「風の精霊は人を騙します。信じるに足りません」 「猫がねずみで遊ぶのと同じでしょう?」  踊り子の女はスファーの言葉ににやりとした。雷の音が近付いている。 「どっちなの?」  セレンの声は低く、怒気を帯びていた。雨の強さは安定したが雷は頻りに轟いている。 「風の精霊を倒せばいいんじゃない?」  踊り子を思わせる風采の女が答えた瞬間、アルスたちの視界は真っ白く塗り潰された。耳鳴りが少しの間止まらなかった。 「セレン!」  叫び声は掻き消されてしまう。海蛇の怪物により大きく抉られた地面がさらに深く窪んでいた。踊り子の女の姿はそこにはなく、羽虫のような羽根を持った男児が光を散らして倒れていた。近くには金魚鉢の破片が散乱している。 「レーラ…?」 「急だったので宿に転送しました」  アルスの固唾を飲んだ呟きをスファーが平然と拾った。一瞬のうちに停止しかけていた鼓動が再開する。セレンは不機嫌そうに落雷の跡を見下ろしていた。 「これでレーラは元に戻るの…?」  彼女はまだ幼馴染が金魚になっていることさえも信じていないようだった。ミーサは3人から少し離れたところで順に彼等を見遣った。風の精霊の具現化らしきかなり幼い男児は死体のように四肢を投げ出していた。5、6歳といった歳の頃でミーサはばつの悪い顔をしてアルスに促されるまで眺めていた。王制の確立される前までは精霊に生贄を差し出していたとミーサは文献で読んだことがあった。人でも家畜でも問わないらしかった。水の精霊や炎の精霊を目にし、特に今目の前にある風の精霊はその倒れ方まで人間に近い姿をしているため、文献に生々しさがミーサを襲う。 「危ないよ、ミーサちゃん。戻ろう」  宿から見えていた朗らかな峠はこの集落へ来る前とは見違えるほど荒れてしまった。一部は切り崩され、この崖はいつ崩落してもおかしくなかった。肩を押されミーサは崖から離される。しかしスファーは大きな穴の縁へ留まり、風の精霊の実体化らしき男児へ両手を掲げ、その身体から魔力を吸っていた。掌に粉末のような光が集まり、握り込む。 「ミーサ殿、これか風の精霊の力」 「こんな力技でいいんすか。小憎らしくても精霊すよ」  ミーサは眉を顰めながら問う。 「精霊は自然を司るもの。自然は圧倒的力で決着する。だから精霊のやり方に倣う」  腑に落ちないまま彼女は精霊の力を吸収した。七星将の教えは人民の住む地に相応しくない感じがしたがミーサは口には出さなかった。この者はすでに七星将ではなく、そのような教えの被害者でもある。わずかに早歩きなセレンとそれを追うアルスの後にスファーとともに続いた。雨はまだ降り続いている。ぼやぼやしていると隣の体温のない手に強く突き飛ばされ、直後地が揺れた。峠が海へ落ちていく。
良い
エロい
萌えた
泣ける
ハラハラ
アツい

ともだちとシェアしよう!