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 書置きとともにミーサは宿から姿を消した。スファーはセレンの部屋に踏み入り、金魚鉢を探していた。しかしミーサの置いていったものは紙片と人工クリスタルのストラップ程度だった。セレンは部屋を荒らすスファーのことなどまったく意識にも入っていないようでベッドに横たわったまま抜殻のように大窓から空を眺めていた。  セレンとスファーを心配しながらもアルスは村の組んだ捜索隊と海へ出た。津波を喰いとめた一件で村の者たちからは特異な目で見られたが排他的なものとは違っていた。むしろ村の若者やその家族からあの娘をくれという声ばかりで兄と勘違いされたアルスはひとつひとつ断らなければならなかった。日が沈む頃になっても幼馴染は結局見つからず宿に戻った。セレンの部屋の扉はノックしても反応がなく、一言掛けてから中を覗いたが朝運んだ食事に手を付けた形跡もなく大窓を向いたまま固まっていた。 「海で遊んでたばちが当たったのね」  セレンはアルスを見もせずに言った。絡繰人形に台詞を当てたような喋り方だった。 「そんなことあるわけないだろ」  珍しくはしゃぐ浜辺で眺めた姿を否定したくなかった。 「もうすぐで全部終わるんだ…って油断してた。帰れるんだ…って。ミーサにもそんな話振っちゃって、バカみたい」  段々と感情的になっていく声にアルスはセレンから目を伏せる。 「それはそれ、これは…これだよ。ばちなんてありっこない。ただ海で遊んでただけで、こんなの…」  嗚咽が聞こえ、アルスはそっと扉を閉めた。泊まっている部屋に戻り、ラタンチェアに座っているスファーを一瞥する。 「金魚見ませんでしたか」 「ごめん、見てない」  疲れを隠せないままアルスはベッドへ倒れ込む。湯を浴びねばという義務感が重く圧し掛かる。 「やっぱりミーサ殿が連れていってしまったんだ」  スファーは頭を掻き乱した。そしてラタンチェアを倒す勢いで立ち上がる。アルスは疲れた顔でそれをぼうっと見ていた。 「ミーサ殿を追います」  書置きには実家に帰るというようなことが記されていた。そしてすべてを秘することと、投げ出すかたちになって申し訳ないという旨のことが短く綴られていた。あとは海に消えた幼馴染を見つけ、然るべき対処をするだけだった。その後のことはミーサには関係なく、それまでのことも彼女の意思次第であって、強いる必要をアルスには見出せなかった。 「放っておいてあげなって…あの金魚がそんなに大事なのか?今何より優先することなのかよ?」  興味を持つ余裕はなかったが、突き放す余裕もまたなかった。疲労は八つ当たりと化してスファーに矛先を定めてしまう。七星将とはこうも違う生物なのか。改めた認識が覆りかけ、妙なことを言う前にアルスは口を閉ざした。 「大事です。ミーサ殿も知っていたはずなのに」  呑気な同室者をアルスはもうまったく違う世間の人間なのだと考えることにして、これから湯を浴びるということも、その後どうするのかも考えたくなかった。考えてしまえば出てくる想像は真っ黒く塗り潰されている。探りながら手繰り寄せる構想はすべて避けたいものだった。王子に成り替わる。ガーゴンが口にした、すでに終わった話が再び目の前にちらつく。 「ミーサ殿には口止めされていたのですが…これは僕の自己判断で言いますが、あの金魚はレーラ様なのです」  アルスは嘆息する。完全には肌に馴染まない魔風と船による捜索、幼馴染への揺らぐ希望によって疲弊した精神は怒りすらも鎮めてしまった。 「そういう冗談は好かないよ」 「僕は行きます。もしミーサ殿が…」  べとついた腕を摩り浴室に向かおうとしたアルスは、突然止められた言葉に不信感を抱き眉を顰めた。 「何?」 「もしミーサ殿があのレーラ様を宿した金魚を放流したら、海から河川から、一匹の金魚を掬えますか」 「スファー、いい加減にしてくれ。悪いけど、冗談に付き合える気分じゃないんだ」  アルスは一度浴室に入ったが、またスファーの前に戻った。魔術によって海面が抉られたとき、確かにアルスの傍には金魚が跳ねていた。たった一匹を守るように、立ち去った小柄な仲間が掛けたような術に包まれ保護されていた覚えがある。 「あの時レーラの身に何があったのか、知ってるのか」 「崖の辺りで踊る女性がいたんです。レーラ様は危ないからと彼女に近付いて、転落したんです。部屋で待つように言われたのですが…あの者は上手く隠しているようでしたが風の精霊に間違いありません。僕もレーラ様の魔力を追跡するのがやっとで、辿り着くとあの金魚でした」  スファーはしどろもどろになりながら説明した。 「でも、もう魔力を探知できないんです。だからミーサ殿がもし…」  喋りながらスファーは激しく動揺をみせた。 「レーラ様の有する魔力は偉大なものです。あの金魚が放流されたなら魔力が暴走し、地域一帯を荒らす怪魚となるでしょう。すると“彼等”に討伐命令が下るかもしれません。魔物となったレーラ様を風の精霊ですら戻す(すべ)があるか…どうか…」 「信じて、いいの…?レーラはまだ、生きてる?」 「ミーサ殿次第で」 「分かった」  アルスは適当に荷物を纏めた。紅色の剣を握る。彼女の体調からすればまだ遠くには行っていないはずだ。 「セレン殿はどうします」 「スファーはここで待ってて」  呼び止める声も聞こえず、アルスは宿を飛び出した。元来た道を辿る。ほぼ一本道で外れれば深い雑木林か山の中にしか続かない道だった。丘陵が足腰を責める。村を挟む山と山を追い越すと魔力の重苦さが除かれた風が吹く。枯草にでもなったような軽やかさを覚えるほどだった。耳を打つ嘶きは夜間の魔物の咆哮なのか、草木のざわめきなのかも分からない。しかし微かに混じる柔らかな歌声は聞き覚えのある質感を持っていた。誘われるままにアルスは走った。行きに休んだ、平坦な岩のある場所に探していた小さな人影があった。技術があるわけではないが下手というわけでもない質素な歌はどこか切なさを帯びているが明るい曲のようにアルスには思えた。 「ミーサちゃん!金魚は!」  アルスは叫んでいた。控えめな歌声が止まった。少女のような人影の膝に金魚鉢が置いてある。 「ここにあるすよ。金魚一匹のためにここまで来たんすか」  優しい歌に反し、ミーサはどこか呆れた調子で答えた。 「その金魚さ、」 「綺麗すよね。鱗の光り方とか。見たことない種類だな。品評会に出したら高評価が付きそうすね、出しませんけど。昔飼ってたんすよ、観賞魚。また水槽出さないと。温度管理もして、野良猫家に入れるのやめて…ちゃんと教本も買おうかな」 「ミーサちゃん」  淡々と喋る声を阻んだ。 「その金魚が何だか、知ってるんでしょ?」 「かなり質のいい金魚、っすかね。見たところ」  ミーサはおどけるように、はははと笑った。剽軽な彼女が冗談を言う時に決まってやる故意的な笑みだ。 「レーラでしょ」 「何言ってるんすか。不謹慎すよ。どう見ても金魚じゃないすか。いやぁ、言われてみればこの凛とした佇まいは似てるすけど…気を確かに持ってくださいよ」  アルスは暗い視界の中でミーサの目を追っていたが、彼女は金魚鉢を見ていた。 「じゃあなんで、スファーが持ってたその金魚、ミーサちゃんが連れていくの」 「魔が差したんじゃないすか?誘拐犯すね。いや、窃盗犯か…金魚だし」 「ありがとうね、ミーサちゃん」  ミーサは顔を上げた。何すか急に、とわずかに棘を帯びたような呟きが聞こえた。 「スファーから聞いたよ。ミーサちゃんが放流しちゃうんじゃないかって心配してた」 「しないすよ。野生の生活は元に戻るより険しいでしょうし」 「飼うつもりだった?」  ミーサはアルスから顔を逸らした。 「さすがにそれは自分の気が滅入るすよ。放流するつもりもなかったすけど、飼うつもりなんてさらさらないっすね」  それは静かな嘆きっぽく響いた。アルスは逸らされたままの横顔を捉えたまま黙ってしまう。 「このまま逃げたかったすけど、見つけられてよかったとも思ってるんすよ、正直なところ」 「だからここにいたの?」 「迷ってたところす。行くか、戻るか、そろそろ決めないと、冷えたら拙いっすからね」  金魚鉢の中で金塊のように小さな生物が光った。 「この話、レーラに聞かれてないよね」  アルスは金魚を見下ろした。ミーサもいくらか気拙げな表情をした。 「分かんないす。反応が殆ど金魚なんで…もしかしたらレーラ殿の意識はないかもっすね」  アルスは暫く水中を泳ぐ緋色の光を眺めていた。 「見つけちゃってごめんね。レーラのこと考えてくれて、ありがとう」  ミーサは彼を見上げていたが、暗闇に聞こえたその言葉に目を瞠り、金魚鉢をアルスへ差し出した。 「すんませんした」  だが彼は受け取ろうとせず、帰り道に爪先を向ける。 「帰ろう、ミーサちゃん」 「でも、」 「オレはさ、レーラを苦しい場所に戻すことしかできないから。…きっとセレンも。身に染みついてるんだよ、そんな気なくても。だからミーサちゃんが持ってて」  ミーサは座ったままだった。差し出したままの金魚鉢は居場所を失い彼女の手の中で豪奢な尾鰭と背鰭をはためかせる。 「レーラにはまた王子に戻ってもらうよ。その時多分、言ってくれないだろうけど、レーラの意思はレーラの口から聞くよ。ミーサちゃんになら言える?」 「…寝てる時にでも言ってくれって感じすね」  金魚は自在に泳いでいる。座っていた岩から降り、アルスの後をついていく。 「セレンにはまだ何も言わないでくれるかな」  ミーサは少年の後姿と月を見上げた。反発すべきか呑むべきか判断が遅れる。 「期待させて突き落とすみたいな真似、したくないんだ」  月光に黄金と緋色の階調が照っている。 「分かったっす」 「もしもの時はきっとオレも冷静じゃいられないと思うから、今言うけど、もう何も言わずに、金魚を連れて逃げて欲しい。オレがレーラに縋っちゃっても」 「もう見つからないように全力を尽くすっすよ」  月の形は明日も明後日も晴れを予感させた。魔力を帯びた風が吹く地帯に入り、前方からは疲弊を窺わせる溜息が聞こえた。
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