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パレスチナの月 6

 二人の悪魔に案内されて行った場所は、誰もいないさびれた路地の袋小路だった。そこには乾いた風が吹き荒れていて、ビル風のように激しく吹き込んでいた。袋小路の最奥には一体の天使の立像があった。まるで本物であるかのような美しさで、リアリティがあった。誰の彫刻なのかは分からなかった。台座がなかったからだ。 「この天使の立像は?」  町子が訊くと、サタンのほうが答えた。 「大天使ガブリエルよ」 「じゃあ、この像は、あの空き地に戻さなきゃ」  町子は、その像のほうに歩いて行って、触れようとした。すると、その直前にフォーラが止めた。 「待って、町子ちゃん」  フォーラは、その像から何かを感じていた。今の町子にそれを触らせるわけにはいかなかった。 「何か、感じない、シリウス?」  フォーラが尋ねると、シリウスは歯を食いしばっていた。少し怖い顔をして、マフディを見る。 「そういうことか、このペテン師」  この空間に充満する、何かの空気。  それは、シリウスの怒りでも、悪魔の少女たちの嫌な感じでもない。優しい母胎に抱かれたような空気。何かを伝えるために動きたい、そんな気持ち。  それを感じて、輝の中の引っかかりが取れた。シリウスの言ったペテン師、それは、こういうことだったのだ。 「マフディが悪魔で、この像が本物のガブリエル、つまりパレスチナの月なのか。じゃあ、この二人の女の子は?」  輝がそう言うと、マフディは高らかに笑った。腹を抱えて笑った。そして、ひとしきり笑い終えると恐ろしい顔をして皆を凝視した。フォーラは町子を庇った。シリウスが輝の前に立った。 「こいつは、大道芸をしている二人の少女を撃ち殺せと言ってきた。悪魔だから撃ち殺せと。だが、普通、天使がそんなことを命令するか? やれるなら自分の手でやっているだろ」 「今まで自分の手でやってこなかったことを、人間にやらせるのはおかしいってことか」  輝が補足すると、シリウスは頷いた。 「よくぞ見破ってくれたな、夜の王とやら。それと、戻すものの少年!」  目の前に現れた『何か』は、憎しみのこもった声をあげて一行を見渡した。 「お前は勘が良すぎる。お前から食ってやろう!」  憎しみを込めたままのそれは、すごいスピードで輝のところへやってきた。シリウスをかすめ、輝だけを狙ったその手は確実にその体を捉えようとしていた。  しかし、それを止めるものがあった。  二人の少女だ。 「そろそろ終わりにしましょう、シャイターン」  ルシファーの娘が言った。 「この地の悪魔、あなたがジブリールを追い詰めたことは分かっている。私たちはジブリールとともに輝たちと協力しようとしていた。だけど、あなたがそれを阻んだ。それは、あなたが本当の黒幕で、私たちに罪を着せていたから」 「黒幕? 罪を着せる? いったい何の話?」  町子が問うと、サタンの娘が返した。 「よく聞きなさい、見るものの娘。あなたと戻すものが邂逅した真夜中のラジオの事件。あれを引き起こし、内山牧師の殺害を企んだのはそこにいるシャイターンなのよ。ひいてはあの町からすべてを起こそうとしていたある組織の長に頼まれてね。シャイターンはイスラムの悪魔。私たちと同じ流れをくむ悪魔」 「悪魔は悪魔でも、シリンとして正しいか正しくないかってこと?」  町子の問いに、サタンは頷いた。 「シャイターンは組織の誘惑に負けた。本来なら地球のシリンによって消滅させられるのが常。だがそれをしないのはおそらく」  その時だった。  シャイターンが、恐ろしいうめき声とともに膝を落として座り込んだ。体から何かの煙が出てきている。 「なぜだ、あの組織のしていることは正しい! 少なくとも我々悪魔の存在を広げてくれるチャンスだったのに! 地球のシリンはなぜそれを認めない!」  シャイターンの体がだんだん小さくなっていく。そのたびに声も小さくなっていった。 「蒸発していく。シリンは、強制的に環の中に返されるときにこうなるわ」  ルシファーの娘が言った。 「悪魔は、いったいどういう存在なんですか」  シャイターンが手のひらほどの大きさになると、輝が口を開いた。二人の悪魔は、それについては何も言わなかった。  そして、静かなる自然の環への、シリンの強制送還。  地球のシリンにしかできないはずのそれを、ここで誰かがやった。いったい誰がやったのだろう。それとも、地球のシリンがここに来ているのだろうか。 「環への強制送還」  疑問を持っていた輝の代わりに、フォーラが口を開いた。 「遠隔地からの蒸発を見たのはこれが初めてよ」 「遠隔地?」  輝は、それを聞いて目を丸くした。遠く離れていてもそんなことができるのか。地球のシリンとはなんと恐ろしいものだろう。  驚いている輝を横目に、シリウスが今度は皆の意識を天使の像のほうへ向けさせた。 「見ろ、ガブリエルが戻っていくぞ」  大天使ガブリエルが本来の姿で石像から戻ると、あたりはまた光に包まれた。ガブリエルはカリムの姿に戻ると、皆に礼を言った。  そして、自分を救うのに協力してくれた二人の少女といったん手を組むことに同意した。少女たちの名前は、サタンがクローディア、ルシファーがアイリーンで、ユダヤ系アメリカ人だった。  カリムは、もはやこの土地に居場所がなくなっていた。一度天使の姿をさらしてしまったからだ。クローディアとアイリーンも同じようなものだった。三人でヘブライ語を使ってけんかしていた以上、双子の少女たちにも疑いはかけられていたのだ。  だから、ガブリエル、サタン、ルシファーの三体の悪魔や天使を、輝たちは自分たちの屋敷に抱えることになった。  そして、三人を連れて英国に帰ったその日。  思いがけない客人が、待っていた。
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