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第5話 パレスチナの月

五、パレスチナの月  パレスチナ。  そこは、憎しみと悲しみが支配し、また、平和と安定を望む人たちが住む、荒廃した土地だった。荒廃した大地に、悲しみに暮れる難民、そして憎しみを抱く住人たちが張り詰めた空気を作り出していた。  そんな中、一人の少年が町に一抹の明るさを与えるために奔走していた。その少年は、まだ大人になり切れていないにもかかわらず、大人と同じ仕事をこなし、食糧支援や医療支援が来るとすぐに駆け付けて手伝いをしていた。  いつも笑っていて、大きな声で住人の名前を呼ぶものだから、彼らは少年のことを憎むことができなかった。少年はそういったことで、この地域ではちょっとした有名人になっていた。ゆえに、彼は住人たちの人気者だった。  住人たちは、そんな彼のことを『パレスチナの月』と呼んだ。パレスチナはまだ、太陽に照らされた場所のような明るさはない。かといって、月のない夜のように真っ暗でもない。暗い夜を照らす月明かりはまさに彼らにとって希望そのものだったからだ。  この国は、きっとこれ以上良くはならないだろう。そのような絶望の中で、それでもこの土地に住んでいられる、そんな希望を抱かせてくれる。それは、小さなものではあるが、確実なものだった。  少年は、毎日何かにつけどこかに行ったり何かをしたりしていた。住人たちは、彼のことを少し心配するようになった。あんなに忙しくしていて体を壊さないのだろうか。食事はとれているのだろうか。住人たちは彼が立ち止まっておとなしくしている姿を見たことがない。  そんな彼が立ち止まって話をしている姿が、ある日、ある町のある通りで見受けられた。相手は成人男性で、東洋人なのか西洋人なのかは分からなかった。髪が黒かったのでラテン系の男性かもしれない。アラブ人と同じ格好をしていて背が高かったので、東洋人ではないだろう。少年は、少し立ち止まって彼と何かを話しながらゆっくり歩き、時々考えこんだり頷いたりしていた。そして、背の高い男性と別れると、一回背伸びをしてから埃っぽい道を駆けてどこかへ行ってしまった。その次住民が見た少年は、いつもの明るい笑顔の少年だった。  先ほどの男性は誰だったのだろう。少年の足を止めるほどの人物だ。国連の関係者や食料・医療支援、学校の関係者や教師などだろうか。  次に少年が足を止めたのは、これも同じくアラブ人女性と話をしている時だった。女性は背が高く、すらりとしていた。顔を隠しているためにどのような人間かは分からなかった。彼女とは、家と家の間にある空き地で、そこにあるがれきの上に腰かけて話していた。その中で少年は何度も頷いて難しい顔をしていた。先程の男性と、この女性と、何か関係があるのだろうか。この女性はいったい何者なのだろうか。いつも明るい笑顔の少年から笑顔を奪えるほどの難題を振りかけてきている、住民にとって彼らはそう見えた。  そして、最後に少年が足を止めたのは、少年と同じ年頃の双子の姉妹が目の前に現れた時だった。一人はショートヘアの、もう一人はロングヘアの女の子で、栗色の髪の毛に緑色の瞳をしていた。アラブ人の格好をしていないから、おそらくは隣のイスラエルからやってきたのだろう。少年は明らかに少女たちを嫌っていた。住人は少年と少女のその態度の違いから、少女たちがイスラエルの人間だと確信した。  実際はどうだったのかよくわからない。しかし、ここで初めて少年は住人たちにわかるほど大きな声で少女たちに話をした。その感情は激しく、そして、苛立ちに満ちたものだった。  少年は、まず、ショートカットの娘にこう言った。 「あの人はああ言ったが、お前たちとなれ合うつもりはない! あの事件に加担したというだけで罪深いんだぞ」  そして、少年は、この言葉が周りに響きわたっていることを悟り、声を小さくした。住民たちは聞き取ろうとしたが、その言葉を理解することができなかった。それ以降の会話はヘブライ語で行われたからだ。  少年の言葉に、ショートカットの娘はこう返した。 「怪我の功名ともいうわ。私たちのおかげで『戻すもの』の存在が明らかになった。それに、本当に私たちが結束して戦わなければならない相手が誰なのかもわかったでしょ」 「だが、家が一軒燃えた。町の人間も殺し合いに加担していたかもしれない。あそこで誰かが止めていなければ大変な事態になっていた。それが理解できないで正当化している人間に協力などできない」 「では、もう一人の『あの方』は、なんとおっしゃっていたの?」  ロングヘアの女の子が、得意げに言った。腕組みをして、二人で少年を囲んでいた。 「私たちも、『あの方』がああ言わなければあなたなんかとは組まないわ。もちろん、あなたの仲間とも、ね。それに、もう私たちもあんな奴らのやることには加担しない。もちろん、人間の欲や怒り、傲慢なんかを増幅させて罪を犯させることはやめないわ。それは私たちの存在意義だから。でも、奴らはそんな私たちの存在さえも否定した。被害者はむしろ私たちよ。あんな奴らのために誤解されて」 「誤解されるようなことをするからだ」  少年は、そう言って二人の少女の間をすり抜けるように、歩き出した。もう話し合うことは何もない、そう言った態度だった。 「内山牧師は死ななかった。それが意味するものを分かっていて?」  少年は、歩みを止めた。 「『あの方』が、逃がしてくださった。内山牧師を逃がした『あの方』が、お前らと協力することを提案した。それも知っている。そこまで知っていてもお前たちとは慣れ合えないんだよ」 「なぜ?」  ショートヘアの女の子が言った。無表情だ。拒否されたときに残念な気持ちになる、そう言った表情は何一つない。眉一つ動かさなかった。 「あなたの感情は人間的で、恐ろしく非合理的よ」  そう言って、彼女は少し口の先を上げて、嗤った。 「そうか、そうよね、ジブリール。あなた、この間『あの人』に諭されていたのはそこだったんじゃない?」 「その名で呼ぶな! 俺の名はカリムだ!」  そう言って、カリムと名乗った少年はきょろきょろと周りを見渡した。先程から周りにある程度聞こえる程度の声で会話をしていた。これ以上固有名詞を出してしまっては正体を悟られかねない。 「いいか、二人とも、ここで俺たちの正体を暴くのは互いにとってよくない。パレスチナは天使でイスラエルは悪魔。ここでそれをやってしまったらパレスチナ人はどうなる? イスラエルとの完全な戦争状態になりかねない。お前たちはそれを好むかもしれないが、俺たちは毛頭嫌だ。場所を変えるぞ」 「戦争は好きだけど」 ロングヘアの女の子が、応えた。 「たしかに、今この状況で戦争は好ましくないわね。奴らの思うつぼになりそうだし」 「『あの方』と『あの人』がここに来て私たちの結束を呼びかけた以上、彼らに有利な状況は作ってはならないわ。協力する」  二人の少女は、そう言って少年とともにどこかへ去って行ってしまった。  住人たちは困惑した。彼らはヘブライ語を使っていた。どこでそんなものを学んでいたのだろう。この地区には高等教育する学校がない。学べるはずもないし、第一古代語であるヘブライ語を教える授業などないはずだ。  住人は、少年に対して疑問を持ち始めた。少年はいったい何者なのだろう。何のためにここに来て、何のために住人と仲良くなったのだろう。  彼らは、疑い始めた。  少女たちはアラブ人ではない。ユダヤ人だった。この辺のユダヤ人と言えば、イスラエルの人間だ。それと、少年は言い争いをしていた。  だったら、彼は住人たちの味方なのではないか。  しかし、彼は少女たちと顔見知りだった。だったら、少年も、もともとはイスラエルにいた人間なのではないか。  住民たちの意見は二つに分かれた。  そして、カリムと名乗った少年が戻ってくると、住民はイスラエル派とパレスチナ派に分かれて口論をしていた。  少年は仕方なく、自分の正体を住民に明かした。本来の姿を住民の前にさらし、その光の届く場所をあまねく照らし出した。住民は少年の本来の名を聞くと涙を流して喜んだ。そして、少年がここを守っていたことから、ここを『ジブリールの聖地』と呼ぶようになった。
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