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研究室 2

 屋敷の庭にたどり着いたその男性は、クリスフォード博士その人だった。  そこにいた全員がその事実に驚いて、その時はどうしたらいいのか分からなかった。とりあえず安全な場所に連れて行こうという話になり、クリスフォード博士の持ち物を探ると、研究室のある屋敷のカギが見つかった。この近辺に病院や家屋は存在しない。まるで陸の孤島のような場所だ。この屋敷のドアをけ破ってでも入るしかないと決めていたが、鍵があったので、難なく入ることができた。  博士はすでに気を失っていて、この中で最も医療技術に長けているカリーヌがクリスフォード博士の様子を見ることにした。  そこで、バルトロはいったん娘たちのもとへ帰ると言い出した。もっと大きな、八人くらいは乗れる車を用意して戻ってくるのだという。皆は、バルトロを送り出すと、博士やカリーヌとともに屋敷のカギを開けて入った。カリーヌは治療のできそうな部屋を一室借りてそこに籠った。  他の五人は、屋敷の中の一室を借りてそこに集まっていた。いまさら資料をどうこうする気にはなれなかった。そんなことより、全ては博士本人から聞いたほうがいいからだ。  五人の中で、何かを話そうというものは誰もいなかった。輝は、その中で非常に重い空気を感じていた。  何かが変わる。そんな気がした。だから、こんなに空気が重いのだと。クリスフォード博士の持っている情報はすべてを変えてしまう。そんな気がした。  輝には何の知識もない。クリスフォード博士がどんな人物で、どんな大変なことをしていたのかもよく分かっていない。けれど、周りの人間のこの状態で、大体は察することができた。  そうこうしているうちに時間は過ぎていった。ずいぶん長い間待ったような気がする。輝たちのもとにカリーヌが入ってきたのは、日が暮れる直前のことだった。 「どうなんです? 博士の様子は?」  開口一番、町子が立ち上がって、こちらに来るカリーヌを目で追った。クチャナに肩をたたかれてソファーに腰を落とす。  その様子を見て、カリーヌが空いている席に腰を下ろした。 「解熱薬を、この辺に生えていた薬草を使って調合し飲ませたわ。あとは、体中に傷やあざがあったからそれも手当てした。そのうえで治癒の力を使わせてもらったわ。博士は治療中、ずっと一つの言葉を繰り返し言っていた。誰かが危ない、危ないって。それが誰であるかは分からないけれど。あとは、熱も下がったし容体も落ち着いてきたから皆が交代で見れば大丈夫」 「危ない」  輝は、その言葉を聞いてどこかに何かの引っかかりを感じた。頭で考えてもそれは分からない。感覚的な何か、おそらく、輝の中にある『戻すもの』の中にある何かにひっかかったのだろう。 「輝、何か分かるのか?」  シリウスが聞いてきたので、輝は首を振って答えた。 「いえ、分かったことは何もないんですが、何か引っかかって」 「引っかかる?」  輝は頷いた。この引っかかりはわずかなものだが、何か重要なことに関係しているような気がする。輝は、一抹の不安を覚えて皆を見た。その表情は暗く見えたが、もしかしてそれは部屋の雰囲気のせいかもしれない。  日が傾いてきている。この森の中の屋敷は古風な作りで、家具も床も壁も梁もだいたいが木造だった。だから、日が暮れると急に雰囲気が暗くなる。電気が通っていないわけではないが、博士が長い間留守していたため止まっていた。セインとクチャナがあたりから薪を集めてきて暖炉に入れ、火をくべた。暖炉はきれいに掃除されていたが、埃があったので払わなければならなかった。  博士の様子を交代で見るというカリーヌの提案を受け入れ、二人ずつ一組になって三交代で博士のもとへ行くことになった。町子はセインと、シリウスはクチャナと、そして、輝はカリーヌと。それぞれ、知っているわけでもないが知らないわけでもない、そんな組み合わせになった。  幸い、各グループにはどちらか、薬やけがの治療に詳しい人間が付いていた。セイン、クチャナ、カリーヌの三人だ。  まずは、疲れているカリーヌを休ませるためにシリウスとクチャナが行くことになった。二人は、数時間博士のもとにこもった。他の人間はなるべく休んだり食べ物を食べたりしていた。博士を病院に連れていくことも可能だったが、無意識に訳の分からないことをしゃべってしまう状況では、ここで見る以外になかった。  しばらくして、ずいぶん疲れた顔でシリウスとクチャナが帰ってきたので、セインと町子が交代した。  町子は、セインとともに病室に指定された部屋に入り、博士の様子を見た。真っ赤な顔をしている。熱はまだ下がりきっていないのだろう。  セインは、部屋に入るなり、その香りをかいで、なるべくどの薬草をどう調合して博士の傷や熱に使ったのかを調べていた。そんなことで分かるレベルなのだから、二千年も生きている人間はやることが飛びぬけている。 「セインさん」  不安げに話しかけてくる町子に、セインは振り返った。 「なんだい、町子」  町子は、苦しんでいる博士の横にある椅子に腰かけて、博士の手を握った。 「不安なんだね、町子」  町子は、頷いた。セインが、部屋に置いてあった薬草を使って薬の調合を始めた。クチャナが、交代の時に、包帯も変えてくれと言っていたので湿布薬も調合しなければならない。セインは忙しかった。町子は、何か手伝えることがあるかと問いかけたが、ただ、博士の手を握っていてほしいと言われ、そうするしかなかった。セインの手際はよかった。はるか昔、自分も同じような手際の良さで命を助けられたことがあるからだとセインは言って、笑った。 「正直、不安なのは誰もが同じだと思う」  セインがそう言って、博士の熱を測る。測りながら、額の汗をぬぐう。 「輝のあの言葉も気になるし、博士の言っている危険だという言葉も無視できない。意識が戻ってくれれば、とも思うが」  セインの言葉に、町子は首を振った。 「私たちが焦ったら、博士はゆっくり休めないよ。セインさんも、大昔、そうだったはず。治療してくれた人は、ゆっくり休ませてくれたはずだよ」  町子は、不安そうな顔を微笑みに変えて、セインを見た。そして、その瞳を博士に戻すと、しっかりと手を握りしめた。 「博士に何があったのか、何が言いたいのか、みんな今は闇の中。でも、一つだけ光明があるとすれば、博士が、私たちのところに帰ってきてくれたこと」  自分の気持ちに、素直になれ。  町子は、そう自分に言い聞かせながらセインと博士を見た。  輝のように、自分の気持ちに気づいて、それを受け入れることができれば、楽になるから。自分の運命に対して疑問を持ち始めたこの心をどうにかするには、自分の気持ちを裏切ることをしてはいけないから。だから、言いたいことはすべて言おう。そう心に決めた。 「セインさん、私」  そう言って、町子はセインを見上げた。すると、セインは町子を通り越して博士のほうを見たまま凍り付いていた。 「博士」  セインは、そう言って、博士の手を握る町子の手を握りしめた。 「お目覚めになりましたか、クリスフォード博士」
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