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三 炎、吼える獣

 あれから一週間が、経った。  毎日が忙しく(ろく)に練習する間もなかったが、それでも帰路に通りかかる家電量販店を訪れ商品であるピアノを我が物顔で弾く。  時間は……恐らく迫っている。  付け焼刃程度にでも感覚を取り戻そうとした。  ……腕前なんて関係ないのかもしれない。  この演奏に意味なんてないのかもしれない。  ――あの時と、同じように。  そんな声が頭を支配するが……彼女の前で失態を犯すわけにはいかないと無謀な修練を始めるのだった。  だが、不完全に凝り固まった指先は(かつ)ての動きと変わらず衰えをあまり感じさせない。  日々の生活で無駄な技能を削ぎ落していくという、人体の構造に真っ向から反対し"あの時のまま"技量を固形物化していたのは執念によるものだろうか。  醜い、と思った。  忘れ去るべき過去の無念をいつか晴らさんと、この腕は無駄な技量を意味もなく保存し続けていたのだ。  来ることのないコンクールに向けて、心は多量の燃料を有したままだった。  鍵を叩くたび、そんな危険物目掛けて種火が降ってくる。  指先が、熱い。  汗が、背中を濡らしていく。  仕事中、二度もキーボードを故障させたのは果たして偶然なのだろうか。指先に纏う感情が触れたものを()がしていくようだ。  だが、そんなことはどうでもよい。  自分は金賞を取らなくてはいけない。  彼女の本心という、トロフィーを掴まなくてはならない。  世間の知らない真実が、自身と世間を切り分けた。  前髪を掻き分けるあの仕草が、自身と彼女を切り分けた。  今の自分はどこにも属しない漂流物。  だから、彼女の曲で……分けられた白い空間に道を繋ぐ。  トンネルを開通させる。  "貴女のファンでした"。  そんな言葉を彼女に届ける為だけに。  忘れ去られたコンクールの舞台に……自分は一人で立ち向かう。  しかし。 「本間さんですか?今日は来ていませんよ。連絡も来てなくて。こんなの初めてです」  舞台は再び中止する。 「なっ……そ、そんなはずは」  普段よりも物寂しい音楽コーナーの片隅。  自分は黒縁メガネの男性店員から聞かされた事実に困惑する。 「本間さん、最近お疲れ気味でしたからね。ずっと苦しそうに咳していましたし。本人は風邪じゃないって言ってましたけど……心配ですよ」  ついでのように知らされた真実がトドメになった。  ――彼女は、自分の前で咳なんてしていない。 「教えてくれて、ありがとう」  ふざけるな。  彼女は自分が思っていたよりも、遥かに強情だった。  あの日、彼女が零した心境は"ほんの一握り"に過ぎなかった。  喉にどれほどの負担を掛けていた。  ……否、掛けさせていた。  金賞なんかには程遠い。音楽コーナーに背を向ける。舞台は未だ幕を開けない。  本間さんと会う、三度目の夜は――訪れなかった。  「……」   身体の中心に火が、灯る。 ***  それからの一週間。  自身の生活は不協和音の連続だ。  週末の夜を酒と共に過ごす。 「くそっ」  自宅の机に向けて思い切り拳を振り下ろす。小さなアパートに金具の悲鳴が響いていった。  感情を上手く抑えられない。指先に宿る執念はより鋭利に研ぎ澄まされていく。言動も時に急激な転調をきたし、昼間は意味のない言い合いを上司と交えることになった。  本間さんと交換した連絡先からは何も返ってこない。悪夢を見る回数が増えた。心臓は鼓動を早め身体を別の何かに作り変えようとする。  どうして、こんな事になった。  目隈の酷くなった顔を鏡越しに……睨みつける。鋭く見開いた眼光に人間たる面影は見当たらない。爪が深く額に刺さる。  過去と折り合いをつけ、それなりに仕事をできていた自分が今ではまるで執念に燃える獣のようではないか。  ――『あの時、あんなことが起きなければ』。  これまで何度も呟いた呪いの言葉を皮切りに怨嗟の炎が燃え上がる。  彼女と……あの女と出会わなければ!  違う、彼女は自分の支えだった。  彼女があんなヒトだと知らなければ!  それでも自分は彼女のファンだ。  あの思わせぶりな言動はなんだ!  忘れてください?  無理に決まっているだろう。  一生にかかわる問題を、なぜただの客に打ち明けた! 「おかげでこちらは大迷惑だ!!」  机に叩きつけられたジョッキが、床を転がる。  一度消火したはずの燃料に、なぜ熱を灯した。  忘れるべき妄執に再び憑りつかれたのは誰のせいだと思っている!!  醜い。  あぁ……醜い、醜い!  研ぎ澄まされた指先は何かを掻き分ける獣の爪だ。  ――こんな爪でも音を紡げるのだから、ピアノという楽器は素晴らしいな。  ……馬鹿げている。  ついに頭までもが火に充てられたのか。  否、始めからこの身は獣だったのか?  一皮むけば……感情を音にすることでしか表現できない人ならざる、何か。誰も見ていない地の底で、汚泥を掻き分ける醜い獣。  助けてくれ。  熱い、熱いんだ!  コップの水を顔から被る。顔を振り、水をはじく。 「ふーっ、ふー……」  冷水に晒され、深呼吸する。  少しだけ気持ちを落ち着ける。  すると。  机の横でスマホの着信音が鳴り響く。 「なんだ、こんな時間に……」  画面に映る文字が()きついた頭に水を差す。 『ごめんなさい。助けてください』  ――本間弓美からの、メッセージだ。
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