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一 ピアノ、黒い記憶

「はぁ、今週も疲れた」  夜遅くまで続くパソコンとの睨めっこ。  誰の為になるとも知れないITなる仕事を終えて、駅前ビルのエスカレーターに足を運ぶ。ステップに足を乗せ、心の中で溜息を漏らす。  目的地は地上五階……大人向けの雰囲気が漂う娯楽フロアだ。  金曜日の夜――即ち週末にこのフロアを訪れては本屋で表紙だけを見て回り、二十一時頃 帰路に就くというのがいつからか習慣になっていた。  エスカレーターに導かれ流れていく景色を横目に、スーツのポケットからイヤホンを取りだす。手に持っていたスマホのジャックに端子を差し込む頃、体は四階のフロアに流れ着く。  慌てて五階行きの黒い段差へ乗り継いだ。  再生ボタンを押すのは店内に入ってからにしよう、などと考えているうちに自分は五階にある本屋の手前、音楽コーナーへ滑り込む。バン、と金属板を踏みつけた足を今度はカーペットが迎えるのだが。  同時に黄色い看板と黒いピアノたちが警告音を鳴らす。テロリ、テロリと独特の音が鼓膜を塞ぐ。  女性店員が商売の一環として演奏の手本を魅せるのだ。  数人の男性客が店員を中心にくるくると回り、営業トークと演奏の境目を泳ぎ続ける。  自分はこのコーナーが苦手だ。  無論音楽は嫌いではないし、会社帰りである今のような時間帯はイヤホンが家代わりのプライベート空間として取って代わる。実際、今自分が着用しているイヤホンもここで買った物だ。  自分が苦手としているのは、一つの楽器。  今、店員が演奏している黒いデカブツ――ピアノが、自分の眉間に皺を増やすのだ。  そんな事を考えているうちに足はようやく音楽スペースを潜り抜ける。  本の独特な香りと、イヤホン越しに掻き消える程度の小さなざわめきが自身を迎える――はずだった。 「あれは……」  ほんの一瞬だけ、何とも言えぬ恐怖に包まれる。  まるで幼い頃、デパートではしゃぐうちに家族と逸れた時の……途方もない孤独感。スーツの下では冷や汗が背中を濡らした。  音楽コーナーと本屋の境目には、真っ白な空間が広がっている。  先週までこんな場所は無かったはずだ。  故に、自分が迷ったのではないかと脳が勘違いを起こす。  改めてフロア全体を見渡した。  本屋のスペースは五、六メートル程縮小しエスカレーター側からみて奥へとずれこんでいる。そうしてできた音楽コーナーとの境目にはプラスチック製と思われる白いイスとテーブルが設置されているのだ。  どうやら近くにクレープ屋のコーナーができたらしい。  クレープ屋の屋台は静まり返っているものの、焼き菓子の香ばしい匂いが仄かに残っている。若者向けの方針転換と考えれば……まぁ、納得できる。大人にとっての小さなオアシスが一つ、小さく成ろうとも大した痛手ではないのだが。  問題はその横に置かれている、黒い楽器だ。  テーブルと椅子が広がる空間に存在感を主張するデカブツ。音楽コーナーで販売されているものより二回りほど大きい"それ"がフロアの中心を独占しているのだ。  クレープ屋の屋台に白いイスとテーブル、そして大きなピアノまで。  狭いと思っていたフロアは予想外な広がりを見せていた。  ――勘弁してくれよ。  無意識に鍵盤の上へ置かれた指をそっと放し、艶やかな天板や弦から目線を逸らす。  床まで白い空間にはスーツとピアノの黒が映える。まるで、同族かのように佇む"それ"が憎らしくて。  身体を反転させる。  背を向ける。  あんな、自由に弾いてくださいと言わんばかりのデカブツを客寄せ目的に弾く奴がきっと現れるのだろう。  馬鹿馬鹿しいと、心の中で嘲笑う。  下りのエスカレーターで、(ようや)くイヤホンは鳴り出した。 *** 「村田くんはピアノ、弾けるんだよね?」  学生の時、何度そのセリフを吐かれたか覚えていない。  期待の眼差しとはほど遠い、濁った眼。  重大な責務を押し付けられるという、安堵から放たれる言葉がどれほど冷たいのかを あの大人たちはきっと知らないのだろう。  合唱コンクールというイベントがある度、自分は強制的に鍵盤へ指を置くことになる。他のクラスが同様の発表をする際は必ず女子が弾いているのだからなぜ男子の自分が弾くことになるのか、毎年理解に苦しんだ。  ピアノが弾ける人員はクラスに一人居れば十分だったのだろうと、今にして思う。  しかし。  元はと言えば、両親が無理やり習わせたのだから拒否権があっても良いのではないだろうか。そんな主張を両親はあっさりと覆す。 「あんたのおじいちゃんは立派なピアニストだったの。だから、あんたも才能があるはずなんだ」  自分がいくら泣いても両親は決して諦めなかった。  両親はピアノを弾こうともしないのに。  週に三度通っていたピアノ教室は、中学生となる頃には金曜日だけに減らしてもらった。  周囲が土曜日を目前に一喜一憂する横で自分は憂鬱だった。  休みの日の直前、黒いデカブツと共に過ごす。  そんな事実――黒い天板が休みという日の輝きに蓋をする。  ピアノが黒いのは、きっと輝きを吸収するからだ。  ……そんな根も葉もない言い掛かりを頭の中で繰り返す。  故に、自分は区切りをつけたいと願った。 「中学最後のコンクールで、賞を取ったら辞めさせてほしい」  それから自分は週に一回の教室を真剣に取り組んだ。自宅にあるピアノも埃を払われ、綺麗になっていったのを憶えている。  急に上達する自分を見て先生も驚いていたのは今でも鮮明だ。 「これなら金賞も夢じゃないよ」  ピアノを弾いて嬉しいと思ったのは、その時だけ……だったと思う。終わりを迎える為だけの終活とも言える日々。上達したところで先はない。周囲の評価に奢る暇も無く、ひたすらに鍵盤を唸らせる。心の奥底で煮えたぎるモヤモヤとした何かが悲鳴を上げる。    火照る指には信念とも怒りとも言えない、不思議な感情が付き纏う。  一曲弾き終わる度に背中を多量の汗で濡らした。  熱い、熱いんだ。  そうして迎えたコンクール当日。  目覚めた時から全身は熱を上げ、じっとすることすらままならない。今にも焦げ付きそうな掌を何度も握りしめ、ばきばきと指を鳴らす。  まるで火打ち石のように激しく唸る関節が心の燃料に発破をかける。  そんな胸の滾る、朝六時。  事件が起きたのは……開場の一時間程前の事だった。 「火事、ですって!?」  電話口で怯える母親の声が不吉な予感を思わせる。  真相を確かめる為、父親の車に乗せられて向かった先でホテルが赤く燃え盛っていた。  車のドアを隔てても熱気が車内まで伝播する。  コンクール会場と併設された、大きなホテルでの火災事故。  消防士が炎に立ち向かい、巨大なホースで水の塊を打ち付けていた。  車から降りて火災現場を目撃する。凄惨な事故現場は観るものの心を奪い去り。  同時に、誰かの未来も奪う。  見上げた先の大きな建物。  炎上するホテルは、ありったけの冷気に晒され熱を奪われていく。  ガラスがばりばりと砕け散る。  誰かの積み上げた日々が瓦礫の如く崩れ落ちる。  白と黒の煙は燃えたりぬと空へ昇る。  どれほどの時間が経ったのだろう。  否、もしかすると一瞬の出来事だったのかもしれない。  大きな建物を包む巨大な火の手は、収まった。  同時に……誰かの心も鎮火する。  コンクールは結局、中止となった。 「その、今回は……残念でしたね」 「……今まで、息子がお世話になりました」  高校生になるとピアノ教室も人員不足で閉鎖になり、いよいよピアノを続ける理由も場所も無くなった。  焦げ一つ付かぬ綺麗な脚が、力なく揺れ動く。  熱の失せた指はいくら曲げても空を掴むだけ。  きっと、これで良かったのだ。過程を飛ばして結果を得た。歓ぶべきだ。  元々、辞めるつもりでいたのだから。  ――本当にそうだろうか。  ならば、この胸に(くすぶ)る灰は一体なんなのだろう。鍵盤から逃れるはずだった心に(すす)の様な染みを残す。  黒い天板は未だ自分を閉じ込める。  あの、決意に満ちた自分の想いはなんだったのだろう。  自分の心に付いた火はあの日、無残に消火される為燃え盛ったわけじゃない。 「また、別な教室に通って高校で賞を取ればいいじゃない。金賞取れるかもって先生もおっしゃっていたし」  ピアノ教室の帰り道、母からは氷塊にも似た言葉を受け取った。  心の燃えカスは一つ残らず鎮火する。  そんなどうしようもない慰めの為じゃない。あの時の想いはもう、取り返しがつかない。  全ては……全ては、あの日に焼べる為だったのだ!  それからだ。  金曜日の朝、度々暗い空を背景に大きな建物が焼け落ちる……悍ましい悪夢を見る様になったのは。 ***  次の週末は別のビルへと足を運んだ。  いつも通っていたビルよりは幾分規模は小さいが、それでもあの音が聞こえぬのだから快適だ。  本屋が三階、楽器販売店が四階と別れているのも良い。  今度からこのビルに来ることにしよう。 「あのー」  本屋でのプライベートタイムを終え、エスカレーターを下りつつそんな事を考えていると 後方から誰かが自分を呼び止める。  職場の上司だったらどうしよう。  黒い(もや)が心の中で膨らむが、それはどうやら杞憂だったらしい。 「は、はい?」  イヤホンを外しながら上の段を見上げるとそこには女性が一人立っていた。年齢は自分と同じくらい。二十代の中頃だろうか。細い体を覆い隠すようなロングコートが春先にしては少し暗めな印象を与える。  小さい顔に似合わぬサングラスが外されると、見知った顔が覗き込んだ。 「あぁ、あなたは……」  手を振りながら笑顔を零す彼女を見て思わず大声を上げそうになる。  彼女の名は本間弓美。  (かつ)て十代の若手シンガーソングライターとして有名になった人物で小さなバンド活動から一躍大成功した、業界の"ほんの一握り"だ。  当時、世間の若者が抱える心の問題を代弁するような歌詞がヒットし有名な音楽番組で半年近く歌を披露していた経験がある。  自宅の物置を掘り起こせばきっと彼女のヒットアルバムが一つや二つ、出てくるだろう。当時、自分も学生の一人として彼女の歌に力を貰っていたわけだ。  そして。 「あはは、他人行儀すぎですよ。貴方、うちのビルによく来る常連さんですよね?」  旬を過ぎた今では事務所も離れ、先週自分が背いたデパート内……例の音楽コーナーで働くショップ店員になっていた。何度か目が合っていたのは自覚しているし、こちらが本間弓美だと意識しているのもお見通しの様だった。  彼女の服装は他人の目から逃れる為なんだと今更気が付く。 「今日はうちに来られなかったのですね」 「えぇ、まぁ……」 「お名前、伺っても宜しいですか?」 「はい、自分は村田昇っていいます」 「村田さん!覚えました。私は――」 「本間、さんですよね」 「やっぱりバレてましたか」 「有名ですからね、本間さん」 「恐縮です。でも……もう昔の話ですよ」  エスカレーターを降りてからもしばらく話は続き、気が付くと飲み屋にでも行かないかという流れになった。  職場がどうとか、あの曲は何を謳った詩なのか等々……。  自分が話すまでもなく次々と話題を取り出す姿に少し驚いた。もっと控えめな人物だと思っていたのは、彼女の歌が影響している為だ。  彼女は心の奥底にある悲痛な叫びを、夜空に向けてゆったりと響かせるように歌うのが印象的だった。そんな想像上の彼女と激しいギャップを憶えつつ、そのまま会話を続ける。  いつもと違うビルに進んだ所為もあり、帰りの電車は一番早くても四十分以上は来ない。  端的に言えば暇だったので、彼女に誘われるという形で駅近くのチェーン店に流れ込んだ。 *** 「あー、いやぁごめんなさい……初めてお話したっていうのに」 「いえいえお構いなく」  顔を赤く染めた本間さんの腕を引きながら会計を済ませた。  飲み放題プランの安い店だからといって開始十分でビール三杯はさすがに飛ばし過ぎだったらしい。  著名人の話を聞ける良い機会のはずだったが……結果としては彼女の愚痴に付き合う事が主だった。否、収穫が無かった訳ではない。  彼女の連絡先と、世間では表にされていない彼女の本音を教えてもらった。  年上のバイト店員から冷たくされている、なんて話から始まり……彼女の将来に関わる話まで聞くのは少し(はばか)られたが。 「ここからは帰りの電車乗るで、なんとかぁはい、帰りますので。はい……」 「本当に、大丈夫ですか?」 「大丈夫でーす!あ、来週は来てくださいよー。お待ちしてますからー」  彼女はゆさゆさと頭部を振りながら笑顔を零す。  茶色がかったゆるめのボブカットは大きく揺れ、彼女の足元だけ地震が発生しているかのように錯覚する。ふらついた足取りに説得力は無くひどく不安にさせられた。  だが、駅のホームは目の前な上、誰かに見られている可能性も考慮してそこで別れる事にした。 「……お待ちしています、か」  駅の明かりから外れ、陰に呑まれていく背中をしばらく目で追う。  普通であればただの社交辞令として受け取ればそれで十分なはずだ。明日の朝には脳から投げ捨て、週末の夜を自由に過ごす権利が自分にはあるが。  ……それでも今日、彼女の話してくれた言葉を忘れたくないと思った。 『実は、私……喉の病気を患ってまして――』  嘗て、若き少年少女を支えた輝き。 『――声は……。歌はいつか、枯れてしまうのですよ』  彼女の歌声が失われるという事実が、世間と自分とを綺麗さっぱり分け隔ててしまったのだ。
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