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1-3-16-1 【桜瀬七波】 『悪孔力学』 1
あたしは一瞬、安心したのかもしれない。
見えたスタート地点の足元に、スタートラインがはっきり見えた事に。
でも、この人は、あの事件であたしとこのオフィス街を逃げ回ったあの人と同じ人物だろうか。
……あたしはそれを、確認しなきゃいけない。
もう、気付かれているとは思う。
四、五歩ばかり足を前に出せば、眼前に立てる程度の距離だ。
でも、その人の視線は本に落ちたまま――それを上げようとはしないでいる。
胸が高鳴る。
頭の中に、記憶が沸き上がり始める。
その人は、全く何気なくそこにいた。
その人が。
『あたしを殺しかけたその人』が、あたしの良く知るこの日常に『あった』。
夜なら、気にならない。夜ってのはそういうものなのかもしれない。
夕方――黄昏た逢魔が時とか呼ばれる時間を過ぎて、『常に日』のある時の境を超えた先に訪れる『夜』という時間の出来事は、『非日常』であっても、ある意味当然の事なのかもしれない。
でも。
その『常に日、非ず』の時に起きた事が。
出会った事が。
今、白日の下で『平然と存在している』。
その人が手にしているのは、辞書ほどの厚みがあり、しかもA4ぐらいの大きさのある学術書のような本だった。
実に落ち着いた所作で読書に耽っている。
どこにでも、誰でもがし得る動作で、見ようによっては平穏な時間を謳歌しているようにすら感じられる。
あたしを殺しかけた、その人が。
チキ、チチチチ……と、袖口に隠したそれが、牙をさらけ出す音を立てる。
今日のあたしが萌え袖でいるのは、何もかわいい格好をしたいからってだけじゃないんだよね。
こんなモンがどれだけ役に立つか分からないけど、少なくとも、震えそうになるあたしの足をしっかりと立たせるぐらいには役に立ってくれていた。
万が一の時は、それに物を言わせる。悪いけど、一切遠慮しない……!
一歩、前へ足を出し……
???「中途半端な殺意だな」
ぎくりとして、それだけで足を止めてしまうあたし。
???「及び腰では護身にならんぞ」
その声――やっぱり、間違いなんかじゃない。
あの夜の、あたしと言葉を幾度も交わした少し低めで、そしてちょっぴり渋めな声。
その人の名前は――『ゲフリーレン』。
ゲフリーレン「なんだ」
ゲフリーさんは、本から視線を上げることなく、右手で左の耳をいじり、そして本のページをめくる。
ゲフリーレン「突っ立っているだけか? 何か用向きでもあれば聞くが」
七波「うっさい、人殺し」
ドストレートに言葉をぶつけるも。
ゲフリーレン「ああ。……否定するところはないが」
七波「ないんかいっ! 危ない人だな!」
イラっとして声を上げた後、チキチキと袖の中でカッターの刃を出し入れして、音を聞かせる。
七波「また殺されるかもしんないでしょ。手を伸ばして来たら刺すからね」
ゲフリーレン「今の俺に、お前を殺す理由はない。むしろアレより先は、出来るだけ無事に生き延びて欲しいと願うばかりなのだが」
七波「フン、信用できるか!」
……。
七波「……と言いたい所だけど」
ため息交じりに、色々頭の中で反芻する。
ゲフリーレン「ん?」
そこでようやくゲフリーさんは本から顔を上げて、あたしへと視線を向けてきた。
何考えてるか分からない無表情な顔。……そうだ、この顔だ。
それがあの夜――特に、あたしが意識を途切れさせる直前にどう変わったかを思い出して、あたしは呆れにも似た感情をため息に乗せた。
……もう一度カッターの刃をチチチ……と引っ込めて、袖の中に戻して。
七波「……あー……そうだよ。うん、多分、そうなんだろうね。分かってた。分かってたのに何あたし緊張してたんだか」
ゲフリーレン「……分かっていたとは?」
七波「本日二度目のうっさい。あたしを殺すの失敗した時……!」
びしっと、指をゲフリーさんに突き付けて。
七波「ゲフリーさん、嬉しそうに笑ったろ!?」
ゲフリーレン「そうだったか?」
七波「ヤバげな顔とかはその前に見てたけど、それとは違う、満足そうな笑顔だった! なんだありゃ!? あんな笑顔もできんのかと! 一瞬別人かと疑ったわ! おまけにあの時、耳元で囁いたよね!?」
◆
ゲフリーレン『――』
ゲフリーレン『――お前は利用されるのみか、『悪』の流動に』
◆
七波「……アレで『誰が殺されてやるかコノヤロー!』ってなったわ! 人の首絞めながら、一体なんだあのセリフは!? 人を焚き付けるみたいに! 人を殺す時のセリフじゃないよね!? 何、ゲフリーさんはあたしをどうしたかったの!? ってかあたしに何期待してたわけ!? 足ゴメンね、思いっきり踏んじゃって!!」
ゲフリーレン「……お前の方が俺に何を聞きた――」
七波「あれ? 足治ったの? どうしたんだい、そのスニーカー? カッコいいじゃん」
ゲフリーレン「……」
あたしの言うように、ゲフリーさんの組まれて持ち上がった右足は、やたら機能性の高そうなスニーカーを履いていた。……あんな溶けてぐじゃぐじゃの足、そのままじゃスニーカーなんてぴっちりした靴、履けないと思うんだけど。
ゲフリーレン「……足先ならすでに完治した」
七波「……まじで!? すごっ! え、4日で治るとかどうやったの!? ロストテクノロジー!? 或いは手を合わせて『にょっ!』って念じると破損個所がぬるぬる生えてくるとか!?」
ゲフリーレン「……。……俺たちの先進の技術も、お前の発想についていくには役に立たんらしい」
七波「いやそれほどでも」
ゲフリーレン「褒めてはいない。……ロストテクノロジーというものが何かは俺には分からんが――」
七波「失われた太古の文明の超技術!!」
ゲフリーレン「それではない事は確かだが、テクノロジーはテクノロジーだろう。リフォームバスによるナノレベルの簡易治療法……は、この星では確立されていないのか」
七波「リフォーム……バス? ……足湯?」
ゲフリーレン「……不思議と長閑 な響きは何故なのだろうかな」
今度はゲフリーさんがため息をつく番だった。
七波「スニーカーはどうしたの?」
ゲフリーレン「手に入れた」
七波「……どこで?」
ゲフリーレン「靴を扱っている店があったので、そこでだ」
七波「……。……ゲフリーさん、日本のお金持ってるの?」
ゲフリーレン「いや?」
七波「泥棒だぁっ!!」
ゲフリーレン「人聞きの悪いことは言うな。良い品には対価を払う、それは当然の節理だ。この星の靴はなかなか履き心地が良く、機能も充実しているので安心して足を通すことができる」
七波「でもお金払ってないんじゃん!」
ゲフリーレン「そんな事はない。靴を拝借する代わりに、少量だが金塊を置いてきた。この星ではそれなりに価値があるんだろう」
……。
靴の……? 代わりに……? 金塊……?
七波「……ちょ、まっ……。……聞いた事のある話なんだけど……」
スマホを取り出してツイッターをオープン。……確か2、3時間前のリツイートに……。
『店頭のナイキ製スニーカーが一足なくなりました。代わりに金と思われる石が置かれていたので、別の国の、お金の使い方の違う方かもしれませんが……。当店は物々交換はしておりません。申し訳ありませんが、お返しくだされば幸いです』
七波「……あんたかぁっ!!」
ゲフリーレン「なんだ、何か問題か」
七波「あのね、そりゃ金はこの国じゃ価値があるけど、出所の分からない金塊なんて、怖くてどう扱っていいか分かんないでしょーがっ!」
ゲフリーレン「売り払って貨幣に換えればいい」
七波「それが大変だって言ってんの! 人の話を聞けッ!!」
ゲフリーレン「……理解しかねる」
七波「お互い様だ」
……もう、この人に常識を求めるのは間違ってるんだけど、それでもあんまりなので声を上げずにはいられなかった心中、お察しください。
後で知ったが、金塊は80万円ぐらいの価値があったそうな。……どこに持ってたんだ、この人……。
七波「はぁ……ゲフリーさんの足の事なんかどうでもいいんだよ」
ゲフリーレン「お前が始めた話題だが」
七波「うっさい。……とにかくね。よくよく思い返せば、言ってくれた言葉の意味を思い出せとか、なんか惜しいとか言ってたよね?」
ゲフリーレン「言った……気がする」
七波「ふわっとしてんな!?」
ゲフリーレン「いちいち口にした言葉は覚えていないが、それに付随する感情を抱いていた事には間違いない」
七波「……それで殺しかけて、その耳元で……あの言葉」
苦々しい表情を浮かべ、あたしはあの夜、ゲフリーさんに締め上げられた首の側面を軽く撫でて。
七波「ホント一体……何がしたかったんだよ」
ゲフリーレン「研究の対象となり得るか、見極めた」
七波「……っ……!」
カチンと、脳の裏っかわでライターでも着火するような感覚があった。
七波「ちょっと待ってよ……人の事殺そうとして、死んだらそれまで、生き延びたら研究材料って事……!?」
ゲフリーレン「その通りだ。観察対象として、お前は実に興味深い現地個体となった」
更にその言葉で、一瞬で沸騰する頭。
七波「人を……ハムスターみたいにっ! ……違った、モルモットみたいにっ!!」
沸騰した頭でテンションのまま喋るとこうなる。
ゲフリーレン「それは地球の小動物か何かか? そんな自意識の薄い存在のように見ているつもりはないが」
七波「用済みなら殺すんでしょ!? モルモットみたいに代わりなんかいくらでもいるって! ゲフリーさんにとってあたしの命なんかそんなモン……!」
ゲフリーレン「今は断じて違う」
七波「えっ……」
ゲフリーさんは正面からあたしを射すくめるように見つめ、表情は変わらないけど頑とした声であたしに言った。
ゲフリーレン「七波、お前にだって興味のある人間はいるだろう。その存在を追い、その存在が何をするのか、興味が湧いたりはしないのか?」
七波「そ、それは……」
ゲフリーレン「この星は、様々な娯楽を謳歌することのできる文明社会を有した比較的裕福な星と見られる。特に、この国はそれが顕著なようだな。人でなくても、様々なメディアに触れて求める物の情報を漁り、生み出されたものを喜びと共に招き入れる。この国の言葉で言うと――ああ、これはスラングに近いのか――ファン、という言葉があるようだが」
七波「……何、ゲフリーさんはあたしのファンとでも言いたいわけ?」
ゲフリーレン「……少し、訳の選択が良くないようだ。語意も微妙に俺の伝えたい言葉とは違う。もう少し高尚な存在と伝えたかったのだが、一つの簡単な単語で端的にそれを行うのは難しいらしい。……これを口にする事でお前が安心するなら、俺の正しい認識を伝えた方がいいか」
ゲフリーさんは少し目を閉じて、何かを模索しているようだった。
……そして目を開けると、ゆっくりと口を開いて。
ゲフリーレン「……俺は俺の全てを賭けて、この研究を成さねばならん。遠い星へと流れ着き、お前という存在と出会えた事に、俺は深い喜びを覚えている」
七波「は……はぁ、どうも」
ゲフリーレン「お前の考え方は、掴めない所も多いが、俺を拒絶するだけの強い精神力を有している。……恐慌の縁にあっても、お前は決して屈することはなく俺という『悪』と向かい合った。――俺は」
真っ直ぐに、あたしを見つめて。
ゲフリーレン「お前のそこに、惹かれた」
七波「……はっ、はい?」
な、なんか、ふふ不穏なセリフの流れが……。
ゲフリーレン「……ナナミ」
七波「ひゃい!」
ゲフリーレン「お前は俺にとって……大切な存在だ」
七波「ぅにっ……!?」
……あたしは思わず目を見開いて、後ずさるも、ゲフリーさんがきょとんさん。
七波「ぁ……ぅ……」
ゲフリーレン「……なんだ? 俺の寸分違 いのない考えだ。最早俺がお前を殺すようなことはない。安心できたろう?」
七波「う……ぅぅぅぅうっさい! できるかっ、ばーか、ばーかっ!」
小学生のケンカみたいに、とにかく頭に浮かんだ言葉でゲフリーさんに声を上げる。
……あたしの頭はこんな言葉しか真っ先に出ないのか。何一つ効果がない事は、この時点では当然理解できているはずもなく。……ほっぺた熱いよう。
ゲフリーレン「とにかく、俺はお前という人間が成すことに興味があるという事だ」
……ゲフリーさんは特別な事を言ったつもりはないらしい。……それに、ヘンに腹が立って。
七波「……あーあー、そうだよね、そうでした、あたしは研究対象でした!」
そうやってかなぐり捨てるようにそんな言葉を吐き出すことで、何とか平静を保とうとするが。
ゲフリーレン「なぜそうも、怒りに任せて顔が変形する」
七波「黙りやがれコノヤロウ! 顔の事は言うな! ……はぁ……別にもういいよ、そんなに怒ってないって」
怒ってもいいんだけど……なんでなんだろうね。
殺されかけて、シツレーな態度取られて、それでも『こんな気持ち』ってのは、あたし自身理解しかねる所なんだけど。
……まぁ、ホントにそれは別にどうでもいい。
エロい目で見られたりとかされない限りは、あたしに興味があるなら好きにしてくれという他ない。
ゲフリーレン「……ナナミ」
七波「ん?」
ゲフリーさんは深く腰を掛けたところから体を前に倒してきて、あたしへと静かに問いかける。
ゲフリーレン「死を直視しただろう、あの時」
七波「……あ、首絞められた時。うん」
ゲフリーレン「俺の言葉であの時――お前は一体何を感じた?」
七波「え……」
また唐突だな。
……あの時か。……うーん……あの時……あの時の、事は……。
七波「……。……よく……覚えてないよ。もう、あの夜は色んな事起こりまくってたし。……でもさ」
あたしは後頭部を少しカリカリと掻いて、何となく、答える。
七波「あたし……なんつーか、悔しかったんだよね。ゲフリーさんに裏切られた事とか、自分の性格が利用されたって事とか。そんで最後には殺されるとか、もう、本当にゲフリーさんのやってる事はあたしにとって素直に『悪』でさ。……まぁ、それはもう今となってはいいんだけど」
七波「ただ、あの時は……ゲフリーさんの言葉聞いて『悔しい』って気持ちがもう一度すんごい勢いで沸き上がって。……あたしはそれでとっさに『負けるかぁっ!!』ってなってね」
ゲフリーレン「衝動的に『悪』へと向き合ったと」
七波「……そう、だね。うん、衝動的。自分でもびっくりするぐらい、頭より先に体が動いた。まぁ……ゲフリーさんには呆れられるかもだけど、あーゆー事経験しちゃうと、いざって時に体がちゃんと動いてくれるんじゃないかーとか期待したりしてね、あはは」
七波「でも、あたしがそういう人間だってんなら。あっさり人に騙されるみたいな性格でも、ね――」
七波「あたしはあたしの事、嫌いじゃないよ」
ゲフリーレン「なるほど、興味深い話だな」
ゲフリーさんはちょっぴり満足げな声で、左耳たぶを右手で触る。
……あの時の事があって、あたしは自分の性格を色んな方向に再認識した気がする。
とにもかくにも、こんなレベルであたしに興味、ってんなら特にあたしに不満はないけど。
……でも、それはあたしも同じなんだよね。
というか、気を取り直して――あたしも聞かなきゃいけない。
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