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1-1-3 【桜瀬七波】 回想『死臭』

 時間にして10分は経っていないと思う。  それなのに、もう1時間以上は経っているような気がした。激しく鼓動する心音が、無意識に時を引き延ばしているかのような錯覚。  そう、さっきの『アレ』から。  一人、誰にも打ち明けられない『悩み』を抱え込んで、明かりが幾重にも煌々と輝く、ちょっとばかし離れた夜の繁華街を眺めていた。  展望台になっているその場所で、胸ぐらいまでの高さの柵に、腕を乗せて寄りかかって。  『何を』悩んでいたのか――  それは――  ……。  ……今は、語るタイミングとしては、物語上、適切じゃない。そもそも女子高生の――いや……あたしの悩みなんて下んないよ?  ただ、このタイミングで大切なのは、『この人気のない場所に闇の帳が下りた時間に、女子高生たる自分が制服のまま一人でいた』という事だった。  それまでにそんな事はなかった。だから高を括っていたことは否めない。自分がその被害者になるという可能性を、想像できなかったんだ。  不意に。  ドスン。 七波「……ふぁっ……?」  前に押し出される感覚。  背中に温もり。それは状況が状況なら心地よいものだったのかもしれない。  だが直後。 七波「んっくっ……!?」  胸に覚えた違和感。そして、瞬時に頭に沸き立つ不快感。  その場にはふさわしくないどころか、あってはならないその感覚。  後ろからだから目には見えないその行為だけど、一瞬で膨れ上がる想像が――それが当たっていようがハズれていようが関係ない――それに抵抗しろと警鐘を鳴らして、体はその言葉に従った。  びくりっ、と身を竦めた体の反応に逆らわず――自分でもどう体を動かしたか、これっぱかしも説明できないけど――体を思いっきり……! 大きく捩らせる……!  それが功を成したか、体の不快感と共に背中のぬくもりが消えて、どざっ! という音が背後でした。  あたし自身も倒れそうになった体を立て直して。  振り返る。  一人のサラリーマンらしき、スーツ姿の男が、非難するような目であたしを見ていた。  蛇みたいな顔ってのは、こういう奴の顔のことを言うんだろう。のっぺりとした顔つきの割に、小さな両の目はやけに離れてて、そのクセそれをこちらへと向け、獲物を狙うようにギラギラとしてて……。  ぞわりと背筋が寒くなる感触。落ちくぼんだようなその目で、あたしを非難なんてする理由は一体どこからくるものなのか――それを把握する術はあたしにはないけれど――! 七波「……『何しやがる』……じゃないだろ……!」  何と目は雄弁に物を語るのだろうか。  男は何も口にしていないのに、その考えている言葉、載せている感情は手に取るようにわかり、あたしは絞り出すように反論の言葉を男にぶつけていた。  だけど、それは図星で、実に的確で。  そしてその結果、男の心に火をつけてしまったらしい。  全く想像力に欠けるあたしは、自分自身が発したその掠れたような強がりにも似た声で、男が全てをあきらめると思っていた。  だが。  跳ね起きる、男。  その不意に行われた大きな動きで、あたしはようやく自分の危機を察した。  でも、それは遅すぎた。  自分はそれなりに俊敏だと思っていた。いざという時の備えはある人間だと思っていた。  ところが現実を目の当たりにしてみれば、所詮は齢16のガキだったらしい。  異常な事態に頭の思考は麻痺し、そんな頭で状況を把握しようとして何一つ成功せず、全てが後手後手に回る。  そして、危機を回避しようとすべきだと思った時には、手首を握られてフェンスに体を押し付けられ、生暖かい臭気を帯びた吐息が眼前に突き付けられてきていた。  その男の年齢は、顔から把握できない。その形相があまりに歪で、年齢など判断できる顔をしていなかった。  そもそもそんなことは今はどうでもいい。今のあたしには、ただ一つの事が頭で理解できればよかったから。  その顔は、ただひたすらに不快で、女であるあたしを恐怖させるものを孕むのみだと。  だから、あたしは。 七波「ひっ、やっ……! あっ、やぁっっ!!」  声にならない声で、抵抗を試みる。  叫ぶという選択肢があったはずだった。  こんな時に何をためらうのか。  でも、その喉から甲高い声を押し上げる事への恥ずかしさと、この状況への恐怖で、それを形にすることができない。  近づけられた顔から、自分の顔を反らす事で精一杯だった。だが、それでさらけ出されたあたしの首筋に、男の口元が……。 七波「ひ、ひゃっ……やめろ、やめ、ぁっ、やめてっ……あっ、うぁぁっ!?」  くにゃりとした、かさついた唇の感触。そして直後、べろりと舌のざらつきが、あたしの首筋を撫でた。  全身が総毛立つ。  あたしに出来る事はと言えば、恐怖と不快感で片足をばたつかせるのが関の山だった。右膝が、男の背広の裾を撫でる。 ……。  それまで愚鈍に立ち回っていた自分が、その一瞬で機転を利かせた。  もちろんそれは偶発的、要はとっさの事だったが――その足を大きく後ろに引いた次の瞬間、あたしの右膝があらん限りの力で、前に突き出される。  どすっ、という鈍い音。 男「ぁっ……ぁぁっ……!?」  今度は男が声にならない声を上げる番だった。  男の腹、みぞおち近くにあたしの膝が抉るように突き刺さったのだ。流石にこれは応えたようで、男はあたしを押さえつけていた手を、あたしの手首から離し、お腹を押さえてよろよろと後ずさる。 七波「はぁっ……はぁっ……はぁっ……あくっ……ぁっ……ふぁっ……」  突然舞い降りた恐怖への怯えと緊張で、息がもう、自分でも驚くぐらいに乱れている。 男「てめ……このガキ……!!」  謂れのない怒りの声に、再び反論しかけたが、今度はそんな事をやっている暇はない。周囲を見て……この場から逃げ  ばしゃりっ  ……そんな音が、目の前から。  今正に男のいる場所で、する。  瞬間、水がまき散らされたのかと思った。  水が降ってきたのかと思った。  この展望台は二段になっていて、今あたしのいる場所はその下側。  上の段と同じ形状の下の段がスライドして出てきたような形状で、フェンスをそのまま背にして顔を上げれば、一つ上の段である展望台がそこにある。高さにして2mぐらい上。  水はそこから降ってきた。  男はそれを浴びた。  その背中に―― 男「あびやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!?」 七波「っ!?」  あたしは再び身を竦ませる。  男は身の毛もよだつような恐ろしい絶叫を上げた。  何……何があった?  あたしは『目を見開く』。  一刻も早くここから逃げるべきなのに『あたしにはそれができない』。  男は地面に、どぅっ、と倒れ込み、そのまま激しくのたうち回る。 七波「……ひ、っ……!?」  倒れた男の背中。  ……ちがう。  男の背中だった場所に。  背中はなかった。  そこから覗いていた物は、  体の中身だった。  ふわりと鼻を突く臭気。さっきの男の口から出ていた物とは違う、全く異質のそれ。  『男は、溶けていた』。  後頭部から腰のあたりまで、ぐぢぐぢとした赤い肉の塊がいくつも連なり露出して、まだ、しゅうしゅうと音を立てながら、液体は男の体を削り取っていく。  液体が溶解させ切れなかった血液――それが体の随所からどくどくと溢れ、地面を赤黒く彩っている。 七波「はぁっ……はぁっ……んっ、ぐっ……んぁっ……はぁっはぁっ……!」  あまりの光景であるにも拘らず、私の目はそこから動かない。  喉がからからに乾いていく。それを唾を飲んで癒そうとするけど、癒えることはない。それどころか更に全身が乾いていく感覚すら覚える。  全身を、びくんっ、びくんっ、と跳ねさせる男の意識は、もはやそこから失われていた。  むしろ、それはもう、人の(てい)を成していなかった。  男は死んだ。……殺されたのだ。  ……誰に? 何に?  麻痺していた脳が現実に引き戻されて、視線をようやく外すことが許された。  そしてその目で……上の段となる展望台を見上げた。  そこに湛えられているのは、真っ黒な闇。  ……闇。  ……闇。  ……黒。 七波「え……っ!?」  闇の中に、明らかに闇とは違う黒い何かがうごめいている。  そして……その黒の中に光る、二つの赤い輝き。  それは明らかにこちらに向いていた。  この男を溶かした何かをまき散らしたモノがいて……それが意識あるモノだとすれば――明らかにそれは目で、そしてなお、その目はこちらを捉えている……!? 七波「……っ!」  赤い二つの光が動いている。  ……こちらに、ゆっくりと。あたしを悠然と見下ろしながら。  距離にして30mないだろう。  そして聞こえてくる……かしゃり、かしゃりという甲冑を踏み鳴らすような音……それが、近づいてくる……! 七波(死、ぬ……殺され……!)  コールタールの泉のように、ごぼごぼと沸き立つその言葉。  私はただ、文字通り脱兎のごとく、その場から逃げ出した。  死。そしてその死が生み出す恐怖という槍に、追い立てられるように。
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