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一日目の夕

 ――人生は旅だというやつがいる。  その旅には道がある。けれど、進む先を見通すことは出来ない。  その旅には夜がある。けれど、暗闇の世界にもやがて朝は来る。  朝の光を拝めず、夜の間に野垂れ死ぬ奴も居る。旅の全てが幸せとは限らない。歩いた道の結末は様々だが、その過程は全て旅だ。  クー・ラフィックにとっての人生は――どうだろう。クーにはまだ解らない。人生について語る人間など、世俗の労苦を見下ろす賢人か、旅を歩ききった老人くらいのものだ。クーはそのどちらでもない。  『ケーニシ』は荒れた土地だった。長く人の手から離れ、時と共に崩れた建物が一帯に眠っている。かつては人々が生活していた街も、今や中途半端に立ち並ぶ壁と、鬱陶しく足元にごろつく石塊に過ぎない。  濁青の空の下、廃墟の遠くにはシェルター都市の青い防壁光が見える。今や人類に残された数少ない安全圏。何億もの凡人たちが死にゆく最中、世界有数の科学者たちが、頑丈な地下シェルターに籠り、必死になって作り上げた人類の努力と叡智の粋を脅かすものはいない。少なくとも、今のところは。  地面に転がった大きな瓦礫を、クーは忌々しく思いながら乗り越えた。使い古したブーツは頑丈で、足に馴染んでいる。幾度となく街の残骸を踏んでもまだ、ケチな持ち主に付き合ってくれている。  荒い息がレスプ・マスクの内側に篭もる。クーの喉には古傷があり、自力ではロクに呼吸が出来ない。家で大人しくしている分にはマスクなしでも十分だが、こういった労働をする時には必須だ。もしも奪われることがあればたちまちの内にクーは紫の風船になって死ぬだろう。  いっそ徹底的にやつらがこの廃墟たる街を破壊し尽くしていれば、さぞかし歩き良かっただろう。しかし破壊者たちは自分たちに便利のいい程度に街を整え、それ以上には労力を裂かなかった。なんとも効率的なことだった。  沢山のがらくたを抱えて、クーは自分の定めた拠点に戻った。拠点と言ってもささやかなもので、燃料焚火と寒冷地でも使用可能な寝袋が一つあるだけだ。他の人間は居ない。生きているものといえばまばらに生えた植物とおこぼれを漁る巨大鼠くらいのものだ。――そのはずだった。 「クイイ」  その小さな生物は細い声で鳴いた。食料の入った荷物に鼻を突っ込んでいたそれは、クーに気づくと怯えたように尾を震わせた。  銀色の鱗の生えた体表に細長い尾と、四本の足に四本の腕。ぎょろりと動く丸い目玉には細長い瞳孔が収縮している。かつて生息していたトカゲ種の姿にも似たそれは伝承の半身半馬のごとき四足歩行で立ち、クーを見ている。  体躯こそ小さいものの、肺呼吸生物において多足多腕の特徴は、今や当たり前となった変異生物種のものだ。 「なんだ、チビの怪物」  クーはちっぽけな銀色の怪物に声をかけた。シェルター都市の外は変異生物種に溢れているが、こういった廃墟で出会うのは珍しいことだった。恐ろしい変異生物種といえど、食事のない場所には住まない。  これがもしも標準的なサイズの変異生物種であったなら、クーは拾い集めたがらくたを捨て、一目散に逃げ出しただろう。だが、この怪物の体高といえば精々、成人の膝を越えるか越えないか程度だ。この程度の変異生物種に逃げるも殺すも億劫だし、馬鹿馬鹿しい。適度に脅かして追っ払ってしまいたかった。 「迷子か? 群れからはぐれたのか」  一歩踏み出すと、ちっぽけな怪物は慌てて足をばたつかせた。だがそれがまずかった。食料バッグを転げ落ちた怪物は、間の抜けたことにバッグからぶら下がっていた、明り石のストラップに足を引っ掛けたのだ。怪物はキイキイと鳴き、抜け出そうと暴れるがストラップは余計に絡んでゆく。 「ああもう、このマヌケが……」  ただ何処かに行ってくれさえすれば良かったのだが、面倒なことになった。クーは溜息を吐き、渋々と暴れる怪物に近付いた。大人しくしてろよ、と祈り、折り畳みナイフをストラップの紐へと近付ける。ナイフが明り石の光を薄く反射した。怪物は増々パニックに陥り、死に物狂いで暴れだした。怪物の尾がナイフを掠め、ひやりとする。 「テメエ、それじゃ切れねえだろうが――」  文句を言おうとした時、プチ、と何かが切れる音がした。怪物の動きに耐えかね、ストラップの紐が切れたのだ。捕らえる暇もなかった。自由になったことに気づくと、怪物は一目散に拠点から逃げ出した。――ちぎれた明り石のストラップを足に絡めたまま。 「あっこら、待て!」  ああ、最悪だ。面倒に面倒が重なって、最悪の面倒臭さに転がり込んだ。俺が何をしたっていうんだ? クーは薄暗い夜を呪った。少なくとも今日は禁煙の誓いすら破ってない。こんな事態が降りかかる理由はないはずだった。  クーは心底うんざりしながら、逃げるちっぽけな怪物を追った。怪物の足首に絡んだ明り石の光が跳ねている。ぼんやりとしているが、その薄桃色の光は夜によく目立つ。当然だ。元々、暗い場所での目印としてぶらさげておいたのだから。  怪物が草むらに転がり込んだ。クーは舌打ちした。視界の悪い所に逃げ込まれては厄介だ。早く追わなければ小さな影を見付けることは永劫出来なくなるだろう。クーは足早に歩を進める。  ――その時、甲高い悲鳴が上がった。 「キイイイイ!」  それはあのちっぽけな怪物の鳴き声だった。慌ててクーは草むらを掻き分ける。そこに大きな黒い影が飛び出してきた。咄嗟に身を屈め、襲いかかるそれから身を逸らす。 「何だ……!?」  巨大な毛むくじゃらの影が唸った。筋肉の盛り上がった四足は地面を抉り、ブラシのような黒い剛毛が逆立つ。尖った二つの耳は凶々しく、長い口には固く鋭い牙が並んでいた。――変異生物種。かつては犬と呼ばれていたそれはその面影もない程に歪な巨躯を誇っている。  クーは身構えた。先程の間の抜けた怪物とは違い、楽に勝てる相手ではなかった。鉛弾銃を引き抜きながら退路を探る――そして気付いた。犬のような変異生物種の口に、明かり石をぶら下げた小さな怪物が咥えられていることに。キイキイと悲しげな声を上げるそれの足元に、桃色の石が揺れた。クーは舌打ちした。 「チッ、しょうがねえな……!」  腹を括ってしまえばクーの行動は速かった。間髪いれずに安全装置(セーフティ)を下ろし、引き金を引いた。銃声が響く。昔ながらの鉛の弾丸が黒毛の変異生物種に向かう。黒毛は筋肉を躍動させ、その場から飛び退く。 「ハ、逃がすかよ――!」  黒毛の飛んだ先めがけ、クーは思い切り砂を蹴散らした。目鼻に舞い散る砂粒に黒毛が怯む。間髪入れず、もう一度引き金を引いた。――ダン! 命中した。黒毛の横腹に穴が空き、赤い血が吹き出した。変異して尚、その血液は赤いようだ。黒毛は悲鳴を上げ、その口から小さな怪物が落ちた。  黒毛は瓦礫混じりの地面を血で汚しながら、よろよろとその場から逃げ去った。後に残されたのはクーと、小さな盗人だけだ。放り出されたちっぽけな怪物を掴むとそれは苦しげに暴れた。クーは怪物の足から明かり石を解き――そしてぽい、とその生き物を放した。  抵抗していた怪物は驚いたように目を丸くし、クーを見上げた。その様子が可笑しく、クーは笑う。 「マヌケな奴。ほら、群れに戻れ。ん? 意外か? 運が良かったな、今日はそういう気分なんだ」  その時――風が舞った。澱んだ雲が裂けた。  ――美しい景色を見た。銀色に輝く花畑が夕日に照らされている。草むらは花の群生地だったのだ。それが今、夜を前に一斉に開花を迎えた。  銀の花粉が輝き、舞い散った。銀の花畑の前には、クーの人型の影と小さな四脚四腕の影。  そこには、一人と一匹しか居なかった。  この美しい光景を見ているのは、ただ、彼らだけ。彼らだけの景色がここにあった。  遠く山の向こうに巨影が見えた。ぐねぐねと動くそれもまた生物だ。夕焼けを背に夜への活動を始めているのだろう。ちっぽけな怪物は夕日の向こうを見て進もうとした。けれど踏み出せないのか、不安げにクーを見た。 「……お前の群れはあっちか」  美しい銀色を前に、クーは呟いた。それからちっぽけな怪物の前にしゃがんだ。怪物は逃げなかった。クーは一つのことを決めた。自分でも信じられなかったが、不思議とその気持ちは揺らがなかった。 「……ストラップ。お前の名前はストラップだ」  それは良い名に思えた。こいつらしいマヌケな響きだと思ったし、それでいて愛らしさもある。クーはトカゲじみた四脚四腕の怪物を抱き上げた。怪物は抵抗しなかった。  その滑らかな首に桃色に光る明かり石のストラップがかけられる。 「――ああ、良いだろう。俺が、あの山の向こうにお前を連れて行ってやるさ」  山の向こうで夕日が沈もうとしている。巨大なぐねぐねとした影の姿も遠くなっていた。空にはちらちらと星が瞬き始めていた――。
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