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第13話 荒ぶる獣と歪みの魔物。俺が魔海の淵を垣間見ること。

 俺は動けなかった。今すぐにでも立って走って逃げ出したかったのに、まるで金縛りにあったかのごとく身体が動かなかった。  ――――身体。  俺はいつの間にか自分がタカシと融合していると――――俺は熊の足元で、なす術なく伏せっていた――――ようやく本格的に実感し、戦慄した。よりにもよって、この上なく最悪なタイミングで、俺達は自分を取り戻してしまったのだった。 「――――ッッッ!!!」  俺は熊が両腕を振りかぶるのを見て、言葉にならない悲鳴を上げた。全身がぶるぶると震え、尋常ではない寒気が背筋に走った。理性がシャボン玉のように弾けて消え、俺の思考は一瞬にして空っぽの洞と化した。  恐ろしく時間が鈍化して感じられた。鈍りきった思考とは裏腹に、瞳に映る景色はやけに鮮明だった。インターネットで学んだ熊への対処法も、全く役に立ちそうになかった。  ああ、マジで死ぬんだ…………。  そう、覚悟しかけた時だった。  ――――扉!!!  奇跡的に思い浮かんだアイデアに、俺はがむしゃらに飛びついた。  すぐ目の前を走る魔力の流れに、藁にも縋る思いでしがみつく。大きく息を吸い込み、固く拳を握り締める。  ――――来い!!!  途端に体中の血液が沸騰直前みたいに熱くなり、皮膚が内側から爛れていくような、禍々しい高揚感がゾワゾワと滾ってきた。  チリチリと舌に痺れる魔力が、辺りに漲り始める。等比級数的に押し寄せてくる魔力の圧に、身体が粉々に爆ぜるかと思われた。 「勇者!!! 伏せろ!!!」  タリスカの掠れた叫びが宙を割った。  タリスカが地を蹴って飛び込んできた時、俺と熊との間に巨大な黒い渦が生じた。沸き立っていた血が一気に冷え込み、鋭い頭痛と、胃の裏返るような吐き気が同時に襲ってくる。  :饐《す》えた香が鼻腔を突き抜ける。  たくさんの鳥の死骸が、一斉に腐れて溶けていく幻が頭によぎった。  俺の視線は重力レンズじみた渦の奥に、ぐんと吸い込まれていく。  タリスカの曲剣が、蒼く美しく閃く。鼓膜をつんざく咆哮と共に、熊が黒い渦ごと押し潰さんと腕を振り下ろす。  俺は迫りくる大渦に息を飲んだ。奥の奥、漆黒の深みに、何かがいる。「それ」は一度だけ俺の目を覗き込んだかと思うと、闇の奥に紛れていった。渦が急激に放散する。  渦は、良く見れば蠅らしき羽虫の集団だった。深紅の複眼を持った無数の虫が、毒々しい黒雲を成し、意思無き厄災然と激しく畝っていた。  無機質な羽音が広間を、俺を、熊を、タリスカを、黒く塗り潰す。 「うっ、わあぁぁぁ――――――――!!!」  絶叫しながら俺は、なぜか火蛇のことを思い出していた。  回転する双蛇の白熱が唐突にフラッシュバックし、俺の身の奥底にずっと燻っていた熾火が、急に勢いを盛り返した。  蘇った炎は挑発的に揺らぐと、俺に重々しく命じた。  ――――殺せ。 「は」  俺の口がそう動いた時には、横薙ぎに振り抜かれたタリスカの剣によって、熊の両腕が宙高く斬り飛ばされていた。  放物線を描いて落下していく毛むくじゃらの腕。切り口から迸る血液もまた、同じく流麗な曲線を描いていた。  俺は、なおも怯まぬ熊の鋭い牙が、あわやタリスカの肩に喰いかからんとしたその刹那、力一杯に叫んだ。 「タリスカ、離れて!!!」  言うが早いか、俺たちに集っていた蠅共が黒い霧となって、辺り一面にブワッと散った。さっきまでとは打って変わって、明らかに興奮した、攻撃的な気分に支配されていた。  タリスカがマントを翻して飛び退き、熊から距離を取る。彼はマントで蠅共から身を覆いつつ、すぐさま剣を舞わせて周囲の蠅を蹴散らした。旋風のようだった。  熊は自らの目に、耳に、口内に、容赦なく群がってくる、否、喰らいついてくる蠅に身悶えし、地響きを立てて床に崩れ落ちた。腕から溢れた血が滝のように降る。倒れた一時だけ周囲から蠅が遠ざかったが、またすぐに厚い黒雲が彼を覆った。  俺はもう一度、炎の声を聞いた。  ――――殺せ。  ――――すでに、咎人は蠅に喰われつつある。  ――――…………殺意を抱け。己の手で、引き寄せろ。  ――――お前の、真の力のために。  握り締めたままの拳が、得体の知れない恐怖で慄いていた。  熊は一際禍々しくわななき、身を起こすと、首と胴体とを振るって、なおも牙を振り回した。周囲に集った蠅が縦横に掻き乱される。  タリスカが牙を掻い潜り、疾風の如く熊の懐へ滑り込んだ。きらめく刃。俺は漆黒の砂嵐の世界に咆えた。 「嫌だ!!! やめてくれ!!!」  叫びを追うように、熊のぶ厚い胸板から盛大な血飛沫が上がった。俺は床に飛び散った血が立てた、場違いに軽い水音を耳にして頭が真っ白になった。  蠅らは瞬く間にどこへともなく霧散し、広間は静寂に包まれた。  倒れ伏した熊の前に立ち尽くすタリスカの剣は、まだほのかに蒼く輝いていた。  俺の胸の内では、急激に勢いの弱まった炎が未だくすぶり、嘲るように揺らいでいた。炎は鎮まっていく間にも、不気味に俺に囁きかけてきた。  ――――…………愚かなことを。  ――――かような強き魔との交わりの機を、なんと勿体のない…………。  ――――お前にも、わかるだろうに。…………感じたろうに。  ――――殺意は、実に素直だ。強く、たやすい力だ。  ――――もう…………知っているはずだろう。  ――――お前の意志が、その扉を開く時こそ。  ――――我は。  俺は歯を食いしばり、あえてじっと耳を澄ませた。  炎は消える間際に、口惜し気にこぼした。  ――――ああ、はやく蛇の娘が欲しい。はやく…………。
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